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京都市は陸前高田の松を受け入れ正しく、供養すべき

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ピンチはチャンスとはよく言いますが、それは正しく対応してこそです。京都市は、五山送り火での陸前高田の松の使用問題で、過剰反応して使わないという間違いを一度し、その取り返しをしようとして、十分な想定と科学的見識を持たなかったために、二度目の中止という重大な間違いをしました。

そもそも、広範囲の稲わらからセシウムが検出されていて、陸前高田市もその範囲にあります。松の表皮だけ1Kg集めるというのは、広範囲に広げた稲わらを集めてそれだけ測るようなもので同様に放射性物質が出るという予想していなかったのは、「無知」のそしりを免れないと思います。
また、あつめた表皮1kgから検出されたという放射性セシウムは1130Bq/Kgというセシウムは、牛肉の出荷基準500Bq/Kg の2倍ちょっとという知れている量です。一人が日常的に食べ続ける食品とくらべると、500本の薪にある表皮が燃焼して拡散するリスクというのは非常に低いと判断付きそうなものに思います。毎日新聞・Yahoo! Jの記事にもこうあります。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110812-00000051-mai-soci
◇測定した数値、問題ない線量…専門家ら

 測定結果の数値について、専門家は「問題となるようなレベルではない」と話す。

 国際放射線防護委員会の主委員会委員、丹羽太貫・京都大名誉教授(放射線生物学)は「仮に表皮を1キロ食べ、全て体に吸収されたとしても取るに足らない線量」と指摘した上で、「意味のないクリーンさを求めた今回の判断は被災地の方々の気持ちを踏みにじるものだ。京都市は学術都市でもあり、専門家の意見を聞いて冷静にリスクを検討すべきだった」と指摘する。

さらに言えば、表皮を除外した薪本体からは不検出(検出限界値以下)でした。少しでも心配という声に配慮して、薪の本体だけつかう という判断をなぜ京都市ができなかったのか、そして、五山送り火 という任意団体の理解が難しいなら、市の責任において市の行事で、「供養」するとなぜ判断つかないのか大いに疑問です。

京都は古くからの都で、宗教と学問の集積地として多くの尊敬を集めてきました。その尊敬が台無しになるような今回の騒動、なんとか今一度決断して、科学的に説明がつき、被災地と日本国民、そしてこのニュースを見守る世界の人々の納得がいく決着をつけてくれることを願い、期待しています。

でなければ、京都にはまともな測定機器メーカーが無く、科学的見識をもつ大学も無く、人の痛みがわかる寺社が無い、そう絶望されることでしょう。

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