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Web2.0時代の企業広報・コミュニケーションと情報活用を再考する

広報パーソンの価値観 社会構造のパラダイムシフト(下)

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情報社会がもたらすもの 

 この情報社会の最大のメリットは、実社会つまりビジネスや政治・行政のスピードアップです。情報集めも早くでき、意思決定も早く行え、顧客や住民へのリアクションも早くなり、投資の回収も短縮され、再投資も早くなり、つまりはすべてにおいて生産性が高まることなのです。豊かになるということと同じでもあります。勝負が明白なものでは先手必勝の鍵でもあります。この先手必勝自家薬籠中のものにした者が、ビジネスの世界でも、選挙でも、政治や行政の世界でも、学問、研究開発の世界でも、成功を収めることができるのです。

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理性-真偽・善悪・美醜を識別する能力 

判断-基準に準拠してるか否かを判別する能力 

理解-概念や論理等の意味を解釈する能力

 一方、個人の役割はどうでしょうか。図にある通り、情報社会では、「ワーカー」も「中間マネジメント」も「トップ」も同様に、「理解力」、「判断力」、「理性」を要求されることになりました。大勢の人が、これを歓迎しました。なぜなら、ワーカーレベルの人でも情報も与えられることにより経営に参加しているという実感を少なからず得られるからです。かつて、周りで何が起こっているかもわからず「決められた通りにやればいい」とされていたのですから、その気持ちはとても理解できます。「とにかく決められた通りにやればいい」ではやる気は出ません。しかも、個人個人の自発性が生かされるということにもなりますから、非常に人間的です。 

もちろん、情報社会の組織でも権限と責任という役割分担はあります。ワーカーと中間管理職、トップを含む幹部との間にある本質的な違いは、情報を先に知ることではないのです。与えられた範囲での理解力の深さや広さ、背景情報への理解度、加えて幹部には組織や企業の壁を越えた視野の広さ、そして真摯さ、責任感、忍耐力、世界観、そして歴史感覚などにもとづく質の高い思考力です。 

 しかし、幹部と同じように情報を与えられているということは、言い訳のできない立場にもなったということです。かつて、組織由来の不祥事やイリーガルな問題が発生したとき、管理者や幹部が責任を負うもので、担当者が訴追されることはありませんでした。判断もせず組織への責任もない者が司直の手にかかることは常識的に考えられませんでした。会社や組織のための脱法行為は、会社が組織ぐるみで守ったのです。でも、今は違います。たとえ上司から圧力がかかってのことでも、会社に良かれという担当者の判断でも、個人の良心と正義にもとづいて行動しろというのが、情報社会の求めるものとなったのです。命令されたことなので責任はありませんと、言い逃れすることはできません。これは、日本に限らず全世界を取り巻く時代の要請です。かつてのような上司が部下を守る時代は終わったのです。 

 1989年にベルリンの壁が崩壊し共産社会が消え去った後、「民主主義の原理」は世界を覆いつくし、世界標準となった感があります。この民主主義の原理とは、統治者と被統治者が同一であるということにあります。つまり、自分のことは自分で管理していくという考え方です。加えて、「自由主義の原理」である、個人は本来いかなる制約も受けないが、まさしく神の見えざる手によって自然に調和していくという考え方が大きく取り入れられてきたのです。誰も強制しない代わりに、誰かが守ってくれるという社会でもないという訳です。自分と自分の仲間で守らなければならないということです。だからこそ、社会保障におけるセーフティ・ネットの再構築がかまびすしく叫ばれるわけです。 

 このパラダイムシフトをうまく手なずけるか否かは、日本の企業や政治、行政、つまりは社会運営そのものにとって実に重要な課題です。いまの日本において企業や組織という個別社会としても社会全体としても、うまくこのパラダイムシフトに適応できている状況とは言い難いのは衆目の一致するところです。 

わたしたちの最大の課題 

 最大の課題は、日本の政治・行政、産業界、アカデミズム、教育界などが、パラダイムシフトの真の意味、つまり個々人の価値観まで改変を余儀なくされているとの社会的常識、つまり共通認識がないことです。それに向けた努力の形跡もありません。各論については山ほど議論されていますが、本質論については大きな議論になっていません。日本丸のかじ取りを委ねられた政治の責任と社会の価値観改善を託された教育の責任は、ともに大きいといわざるを得ません。 

多くの人々がこの問題を自ら考え判断して生活を送っていく際にもっとも重要なものの一つに、「誰かが必要とする情報は、誰でもいつでもどこでも入手できるようにしておく」必要があるということです。いつどこで誰がどんな「情報」を必要とするかわからない社会ですから、全ての情報は公開が基本原則であって、基本的人権であり、生存権であり、幸福を追求する権利なのだと言っても少しも言い過ぎではないはずです。 

もちろん、このような複雑な社会ですので、公開できないごくわずかの情報はもちろんありますので、非公開だと特定された情報は多くの人がその存在を心得ておかなければなりません。将来に向けた情報公開規定もルール化される必要があります。 

このように、企業だろうと政府だろうと例外なく、多くの窓と広い間口のインフラを用意してそれらの情報を常時オープンにしておくだけで、組織効率においても社会的にも多くの無駄や無理やムラが省けます。 

 今この日本の現実社会では、自己の帰属する組織や担当業務に立脚した、自律自存の言えば聞こえのいい実はタコつぼ的個別最適型PRやコミュニケーションをメインとする広報活動に流されがちです。今一度、視野を大きく広げビジネス環境や社会全体とのかかわりの中で、企業でもアカデミックでも政府や行政においても、全体最適という価値観に基づく社会全体の情報流通生産性の向上という視点で、個々の広報活動のオープン性や透明性を見直す必要があるのではないでしょうか。 

参考文献:

 世界を不幸にしたグローバリズムの正体ジョセフ・E・スティグリッツ著 徳間書店 20025月発行 

 資本主義はなぜ自壊したのか中谷巌著 集英社インターナショナル 200812月発行 

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