ソニーエリクソンの挑戦(34)~ひとまず終わり、後書きのようなもの
1カ月強にわたる、この連載も、ひとまずの終わりを迎えました。
私は、この「ソニーエリクソンの挑戦」という連載で何が書きたかったのでしょうか? 2003年12月に井原勝美社長に、お会いしたときには、「もしかしたら、ソニーエリクソンの設立から、経営が安定するまでについて、何か書けるかもしれない」と思いました。しかし、2004年に井原氏がソニーに復帰し、さらに翌年3月に、ストリンガーCEO、中鉢社長、井原副社長の体制へとソニーがかわった時、少し考えがかわりました。
同じ時期に、「ウォークマン携帯電話」発売のアナウンスがあったこともあり、「ソニーの携帯電話事業としてのソニーエリクソン」について、何か書けるだろうと思いました。実際、「ウォークマン」というのは、ソニーの歴史を刻んだブランドであり、ソニーから何かポータブルな製品が出てくると、必ず「次世代ウォークマンか?」と騒がれたものです。
そして、私は思うのです。もし仮に、2003年にソニーエリクソンが『T610』という携帯電話をヒットさせられなかったら、状況はかわっていたのではないかと。おそらく、ソニーエリクソンは、携帯電話の端末の生産からは撤退し、ソニー・グループに、携帯電話の部品を供給するような会社になっていたのではないかと。もしそうなっていたら、「ウォークマン携帯電話」も、ソニーのウォークマン事業部が主導して、ソニーエリクソンから部品の提供を受けて、作っていたのではないか? いまのようにソニーエリクソンが、ソニーから「ウォークマン」のブランドを借りるという状態にはなっていなかったのではないかと思うのです。現在のソニーエリクソンは、ウォークマンの正当な後継者の一人として認められたことになります。
また、取材を進めていくうちに、ソニーエリクソン以前にも、ソニーはクァルコムとの合弁を設立していました。これは失敗に終わりましたが、この失敗の教訓は、ソニーエリクソンの設立時に活かされます。ソニーにとっては、携帯電話事業を軌道に乗せるのに、実に十年もかかったことになります。
そして、ソニーという会社は、日本の携帯電話産業においては、主流と呼べる会社ではありませんでした。しかし、日本において傍流の会社が、いまや世界のトップ3を狙える位置につけている、という状況となっています。つまり、「ソニーにおける携帯電話事業」の軌跡をたどることで、日本の携帯電話産業のたどった「もう一つの道」が書けるのではないか、と思ったのです。
私は、ずっとイギリスにいたため、日本においてソニーエリクソンが、どういう携帯電話を発売し、どういう評価を得ていたのかについては、あまりよく知りません。この連載でも、ほとんど触れていません。逆に、日本で、この連載を読んでくださった方からすると、ここに書かれているのは、みなさんの知らないソニーエリクソンの姿ということになります。インタビューなどに、ご協力くださいました方々、特にソニーエリクソンの方々、また、4年以上に渡り私を支えてくれた方に、ひとまず御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。本当に、ありがとうございました。
最後に、ワンパターンで、まことに恐縮ですが、シャクルトン南極探検隊の募集広告を掲載しておきます(これが本物の広告だったら、なおよかったのですが・・・)。
求む男子。
至難の旅。
僅かな報酬。
極寒。
暗黒の長い日々。
絶えざる危険。
生還の保証なし。
成功の暁には名誉と賞賛を得る。