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商社マンの営業として33年間(うち海外生活21年間)、国内外で様々な体験をした。更に、アイデアマラソンのノートには、思いつきを書き続けて27年間、読者の参考になるエピソードや体験がたくさんある。今まで3年半、ITmediaのビジネスコラム「樋口健夫の笑うアイデア動かす発想」で毎週コラムを書き続けてきたが、私の体験や発想をさらに広く提供することが読者の参考になるはずと思い、ブログを開設することにした。一読されれば「読むワクチン」として、効果があるだろう。

お祖母ちゃんの末期の巻

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海外不思議体験 お祖母ちゃんの末期の巻

 私がサウジアラビアに駐在していた時のことだ。

 ある年の正月3日、日本と同じように自宅で正月を過ごしていた。何曜日だったか忘れたが、午後2時ころ突然、恐ろしく気分が悪くなった。吐くところまでではなかったが、胸の中がグワーと抑えられるような感じがした。
 その瞬間、私は体で分かった
「大変だ。お祖母ちゃんが死にかけている!」と、私はヨメサンに叫んだ。

 もちろん、私はサウジアラビアのリヤドに家族で生活していて、お祖母ちゃんは、京都にいた。私のお祖母ちゃんは、癌で入院しているとは聞いていた。だけど、仕事の忙しさの中で、十分に連絡は取れなかった。
私には、「お祖母ちゃんが死にかけている」ということだけが、体で分かった。

 ヨメサンにこのことを話し、気分の悪い中で、自宅から日本の両親の自宅に国際電話を掛けた。両親は不在だった。呼び出し音が続いて、実弟の家も、誰も出ない。親戚全員に電話したが、誰も出なかった。
 お祖母ちゃんが一番可愛がっていた孫が私だった。

(こりゃ、いかん)と思ったが、お祖母ちゃんの入院しているはずの病院名も電話番号も、分からなかった。サウジアラビアの午後2時は、時差で日本の午後8時だ。気分の悪いのが治らないまま午後、私は自宅でイライラしていた。夕方の5時半ころが、一番気分が悪かったので、ソファーで横になっていた。
 早目の夕食も軽く取ったが、気分は悪いまま、事務所に向かった。

 すでに午後7時半だった。日本時間の夜中の1時半である。
 会社で日本からの到着している通信を読み始めたが、気分が悪く、もう一度、日本の両親のところに電話を入れた。

 呼び出し音が何度か聞こえて、(居ないか、切ろうかと)思ったころ、「ガチャリ」と受話器が取られた。
「はい、樋口です」と父親が出てきた。
「ああ、お父さん、私です」
「あ、健夫か」
「お祖母ちゃんに何かあったか」と、私は思わず叫んだ。
「ああ、もう知らせが行ったか。1時間半ほど前に亡くなったよ...」
「いや、もう6時間ほど、気分が悪くて、悪くて、どうしようもなかった。お祖母ちゃんに何かあったと感じたんだ」
「へえ、それは不思議なことだなあ。病院から今、帰ってきて、玄関のカギを開けたら、電話が鳴っていた」
「最後はどうだったの」
「何時間か、相当痛がって、大変やった。この夕方ころからや。最後は特に痛がっていた。可哀相だった」
「きっと、お祖母ちゃん、最後に私を呼んでいたんだ」
「そうかもしれんなあ」

 私を一番可愛がってくれたお祖母ちゃんの葬式には、帰国できなかった。

 それどころか、お祖母ちゃんは、亡くなる時に、私に数十億円のお土産を残していった。
 私の仕事で担当していた数十億円の大型案件で、ほとんど競争相手に決まりかけていたのを、私が本社に提案して、捨て身でサウジアラビアのお客にクレームを付けた。
その案件は、当初、当社が入札で一番札だったはずで、それを再入札にして、手続きが不明確なままに、お客が競争相手の某社に決定しかけていたのだった。
 道義上の筋が通らない話だと、慎重に言葉を選んで、お客に手紙を書き、再考を要求した。半月ほど前の話だった。当然ながらお客の社内では、大騒ぎになり、社内でその事実調査が行われ、近々最終の決定を取締役会に掛けられるとのことだった。
 
 その取締役会が、私のお祖母ちゃんの亡くなった日の、ちょうど亡くなった夕方の時間に開かれたのだった。そして、決定は、当社側に覆ったのだ。
 今でも、私はお祖母ちゃんが、命にかけて、私を助けてくれたと信じている。

現象に対する証言の有無 うちのヨメサン

教訓 遠く離れていても、このような不思議な体験をしてみると、世の中、様々な不思議なことが見えてくる。年齢とともに増えてきている。




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