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ベンチャー企業の成長について、現場で思うこと

不在をもって、存在を際立たせる

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今年最初に読んだ本は、松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集でした。
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脳と日本人

編集というのは、新しい関係性を発見していくということなんです。スピーチだって料理だって、商品開発だって、「印象に残る」とか「おいしい」とか「便利なものを提供する」というふうに新しい関係を発見することですからね。(松岡、8ページ)
インターネットによって、いろんなものがつながるようになって、関係性というキーワードはさらに重要性は増していると思います。そういう意味では、世の中に価値を生み出すには、編集次第ということになるのかも知れません。
われわれは、「普遍」ということを自分のプライベートな生活とは遠く離れた、まさに遠い世界の中にあると思いがちだけど、普遍の「宿」は、このちっぽけで陳腐、猥雑な日常の中にじかないと気づいた(茂木、44ページ)
クオリア日記」というブログを書く意味を語られています。読む側の想像力で普遍を感じ取れるのかも知れません。そういう意味では、ブログは意見だけでなく、客観的な事実の羅列でも十分に有用と言えるかも知れません。
いまや日本は、とんでもないものになりましたね。たとえば、いじめの問題や社会的逸脱者にしても、アノマリーなものを絶対に許せない。いじめていじめて、自殺にまで追い込んでしまうのですからね。ぼくの仮説はは、いじめられっ子のほうが神様で、彼らが残したことが共同体に神秘なもの、あるいは正体不明なものとして定着して、残ったという見方なんですよ、でも、そういう時代は昔日のことになってしまった。(松岡、72ページ)
ダイバーシティで注目されているのは、異質なものを認める許容性から生み出される革新力です。異質なものを認めず、徹底的に消毒していく世界は、非常に危険で窮屈な感じがします。
水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまった。不在をもって、かえって存在を際立たせるというのは認知科学的にも理にかなっている。(茂木、117ページ)
枯山水の庭に関しての発言です。大切なものに対する認識は、飢餓感から生まれてくるのかも知れません。最近、失われていることって何なのでしょう?
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