ソフトウェア製品開発現場の視点

世界史、日本史で年号を問う問題はやめるべき

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最近、若い人は物を考えないという批判を頻繁に耳にします。しかし、これは若い人に限った問題ではなくて、どの世代でも同じようなものだと私は感じています。かつての欧米各国が示した方向性に従って欧米を追っかければ価値が出ていた時代では、先輩がやってきたことをそのまま学んで進めば良かったのですが、欧米各国との差が小さくなり、一部の分野では追い越してしまったこと、そして他の国々に追いかけられ追い越される立場になったことで、先輩がやってきたことをそのまま無批判に引き継ぐのではなく、考えることが求められるようになってきたのだと思います。

そもそも、日本の教育では考えることは求められていません。できるだけ沢山のことを記憶して、記憶した内容をそのまま試験用紙に書くことが教育のゴールです。世界の中での日本のポジションや、社会に求められる能力が変化してきているにも関わらず、未だに教育現場で記憶重視の教育が行われている一番大きな原因は大学入試です。大学への入学方法が、記憶重視でないものに変わっていけば、もっと考える教育が行われるようになるのではないかと思います。

記憶重視教育の典型的な例が、年号の記憶です。大学が、年号を問う問題を大学入試で出している限り、高校での記憶重視の教育は変わらないでしょう。そもそも歴史を学ぶ理由は、過去の歴史を知り学ぶことで、現在の社会の成り立ちを知り、より良い未来を作っていくための知識をつけることだと思います。決して年号を憶えることがゴールではありません。年号を知らなくても歴史から学ぶことはできます。ただ、様々な出来事を時系列に並べてみるという意味で、年号を利用することは否定しません。年号の記憶は手段であり、目的ではありません。単なる手段であるべきものを入試問題にしたことが、ひずみを生んでいます。

科学的に考えると、出来事を時系列に並べる時に求められる精度は、1年がベストとは限りません。1000年以上昔の話は、10年くらいの精度で十分でしょう。一方、明治以降の事柄は、1ヶ月単位で見ないとわからないことがあるかもしれません。それを、どの時代でも1年単位で間違えないように憶えることを求めることは全く意味がありません。大化の改新が 645年であろうとも 650 年であろうとも歴史を理解するという目的では大差ありません。

英語教育も大学入試が影響を与えている問題の一つです。日本の社会全体としては、読み書き中心の受験英語教育でなく、会話重視の英語教育が必要だという共通理解がある(幼児の英語教育ブームからもわかります)にも関わらず、大学入試が変わらないことで、会話重視の英語教育への切り替えは、進んでいないように見えます。

最近、秋田の国際教養大学が話題になっています。この大学の個性が企業からも高校生からも注目を集めているのだと思います。個性を持った学生を育てるためには、大学自体が個性を持つことも必要なのだと思います。個性が求められ、認められる時代になってきたのだと思います。

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