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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

わたしが左手で箸を持てる理由。イラストレーターの利き手が損傷するとき。~続・ライル島の彼方(n)~

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クリエーターは、利き手を守れ!

2001年、瀬戸内海を震源とする、芸予地震が発生した。M6.7。
発生時、筆者は、連載を書き終えたところだった。保存しようとした時、カタカタと小刻みに柱が震えた。シャットダウンすると同時に、揺さぶられた。
ローテーブルの下に、上半身を潜り込ませ、テーブルの脚を握った。長かった。
怪我はなかった。キッチンでは、コンセントを挿していた炊飯器が2m飛んで転がっていた。
築50年の木造。震度5強。近隣は全戸屋根が損壊。筆者宅は無事だった。上階に重量物を置かず、軽量化していた。

大揺れの中、ローテーブルの下に潜り込む。冷静に行動できたのには、理由があった。

「頭と目と利き手を守れ」

デザイナーの先輩の教えだった。かすり傷ひとつなかった。

絵の道へ、立ちはだかる、いくつものハードル

生来、三度の飯より、お絵描きが好きだった。エンジニアの父が図面のミスコピーを束ねて作ったメモ帳は、スケッチブック代わりになった。(絵:当時家で飼っていた金魚。2歳半。ミスコピー用紙の裏に色鉛筆)

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将来はイラストの仕事を、と考え始めたのは、小学生のころだ。
幼稚園の頃はロケットのエンジンの開発者になりたかったが、設計責任の重さに怖気づいて諦めた。
小・中と、コンクールでの受賞が続いた。中学3年。学年主任の教師から、東京に著名イラストレーターの友人がいる、その事務所に就職しないか、と打診された。両親は猛反対。断念した。

心の中で筆を折って、普通高校に進んだ。

入学後、受験制度が変わった。芸大デザイン科は、実技より学科重視、合格圏内。だが、家計を考えると、受験のための交通費すら捻出不可能なのだった。父は戦後、物資不足の中での手術で、片肺を失っていた。外見からはわからない、内部障碍。無理をできなかった。そして当時、学生のアルバイトは禁じられていた。

学んでから仕事に就くのではなく、学びを飛ばして仕事をしよう。すこしでも、仕事のありそうな場所へ。
最も費用のかからない大学を受験。入学後すぐにフリーランスとして動き始めた。
作品をまとめたスクプラップブックを作り、求人誌で企画会社やデザイン事務所を探した。
18歳。労せず、2社目に問い合わせた企画会社の社長の評価を得て、外部スタッフとなった。
ほかに数名、外部スタッフがいた。その中に、当時流行のリアルイラストを描く広告デザイナーがいた。
雑談をしていた時に、ふと、言った。

「イラストレーターやデザイナーは、頭と目と利き手が命だ。どんな状況にあっても、それだけは守れ。」

ペンを持てない、箸を持てない

先輩の言葉は、強く記憶に刻まれた。
だが、そのときすでに、筆者の手には、ひび割れが目立ち始めていた。
半年も経たぬうちに、カッターで切り裂いたような傷が、両手数十カ所に及んだ。関節部分の皮膚は、骨が露出する深さに割れた。指は薪のように腫れ、血膿が出て固まり、突っ張り、曲がらなくなった。

数か所の開業医や薬局へ行ったが、埒が明かず、基幹病院の皮膚科へ駆け込んだ。ステロイドを処方された。
塗れば少しだけ改善する。だが、すぐに悪化する。一歩進んで五歩下がる。
爪が割れた。そのままでは引っかけてしまう。透明のマニュキアで固めた。うっかり、そのまま通院した。
その日、診察室には、研修医がズラリ並んでいた。雷が落ちた。「そんなもの塗るな、逆効果だ!」

両手とも変わらぬ惨状。とくに利き手はひどいありさまだ。
一歩を踏み出したばかりなのに、ペンを持てない。
せめて悪化を防ごう。右手を守らなければ。日常労作は、左手に集中させよう。
右から左へ、逆の矯正をすればいい。箸は左手で持とうじゃないか。

家庭に侵入する、合成化学物質

医師も、薬局の薬剤師も、誰ひとり原因には言及しなかった。
だが、筆者は感付いていた。原因は食器洗い洗剤に違いなかった。

筆者1歳の頃、母が貧血で入院した。以降、入退院を繰り返した。父は家事万能のイクメンだったが、昼間は会社にいる。台所に立ち始めた。
小学生になった頃、革命的な食器洗い洗剤が登場した。母は家事ができるまでに回復していた。買ってきて、言った。「これで、イチゴもブドウも洗えるのよ」
うっすらと泡の経ったボウルの中に、果物を浸ける。差し出された。食べなかった。
実に、革命的だった。
それを使うと、手がざらざらした。粟粒のような湿疹ができた。

ネットのない時代、合成洗剤の健康リスクを伝えるメディアはない。
台所用洗剤といえば、食材を置く調理台のすぐ傍で使うもの。誰しも安全性を疑わない。それは、家庭内に合成化学物質が入り込むきっかけとなる商品だった。

こうした製品が市場を席捲するにつれ、街並みも変わった。コンクリートとアルファルトに覆われていく。
国民の大多数が、テレビの垂れ流すライフスタイルに絡めとられ、共通の美意識を持ち始めた。漆黒の空よりも、眠らない街の夜景。星よりも灯かりに、美を見出していた。
地方の若者は、とり憑かれたように、東京を目指した。
筆者は絶望に飲み込まれそうになりながら、その急激な変化を、眺めていた。経済最優先の社会が、この国を、地球を破壊するのだ。もう、誰にも、止められやしない。

数年後、朝日新聞で、有吉佐和子著「複合汚染」の連載が始まった。だが、もう、その頃には、後戻りできないほどに、人々の意識は変わり果てていた。

環境リスクの少ない製品を使いたくても、代替品はなかった。一択だ。筆者は、10代の間、その洗剤を使い続けた。

暴露源を遠ざけて、徐々に回復

左手で日常生活をこなしながら、1年経ち、2年経った。その間に、外食作業が急成長。コンビニが徐々に増え、スーパーには惣菜が並び始めた。自炊せずとも食を賄えるようになってきた。

合成洗剤を使う回数が減るとともに、傷が癒え始めた。新しい皮膚が覆い、サムピックでギターを弾けるまでに快復した。
指は曲がりにくいものの、ペンを持てるようになった。安堵した。

3回生。大学の就活室を、興味本位で覗いてみた。出版社からの求人があった。科学技術雑誌の挿絵を描く仕事を考え始めた。ところが、父が脳血管障害で倒れた。実家の家計が立ち行かなくなった。かけだしのフリーランスでは稼げない。正社員になるしかない。

地元の広告代理店がイラストレーターを募集していた。
企画会社の外部スタッフだった頃、描いたイラストがあった。
大学の図書館で見た生物学の雑誌に、覚えた危機感。関連する論文の掲載誌を芋づる式にあたり、震災と生殖医療の未来を表した。イラスト雑誌の公募展に応募すると、豆粒ほどの大きさで載った。この原画を履歴書に添えて送った。

新聞社と放送局の支社が入居するビル。24時間働くひとたちがいる。午前に帰宅する日々が始まった。朝食は珈琲。昼食は、手作りベーカリーのパン。夕食は市販の弁当。洗いものが減った。

さらに、スーパーには、一種類だけ、代替品が登場した。食器やふきんを洗える固形石けんだ。衣類も洗うことができた。汚れた部分だけ、石けんで手洗いして、泡のついたまま洗濯槽に入れて一回転。

原因となる製品から遠ざかったことにより、両手の皮膚は完全に再生した!

とはいえ、家計は火の車。父の入院費の請求額に腰を抜かした。ハローワークで、高給の技術職を見つけた。

ふたたび、皮膚に異変。手と顔が...

電子事業部に配属された。仕事は、順調だった。回路製図、技術仕様書の編集、取扱説明書のイラスト。CADもプロッタもレーザープリンタもない手描きの時代。ひとつのミスも見逃さないよう、毎日、コピーして赤ペンで二度三度のチェック。フラットな組織で、担当制。図面のコピーは、部下やアルバイトに頼まず、自分でとっていた。

半年を過ぎた頃、手の皮膚に異変が生じた。以前のような切れ込みはない。奇妙なことに、皮膚が失せていく。
重工業地帯には、労働災害に詳しい病院がある。皮膚科には、週1回、大学病院から研修医が派遣されていた。若い医師は、見るなり、接触性皮膚炎だと断定した。ステロイドを処方された。塗布して、綿の手袋をしてシャープペンシルを握った。
ところが、回復を上回る速度で状態が悪化していく。数カ月経つと、皮膚はほとんどなくなってしまった。血液と浸出液が図面に付着するのを防ぐため、包帯をミイラのように巻き、その隙間にペンを挟み、包帯で固定して図面を引いた。だが、五重六重に巻いたところで、血が滲み出してくる。昼休みに、巻き替える。固まった部分は無理矢理剥がすしかない。一進一退だった。

ある日、顔の皮膚が失せた。出勤のため身支度をしようとしたら、無くなっていた。浅いアシッドアタックのような状態だ。マフラーで目以外を覆って病院へ。ステロイドを塗って2週間休職すると、状態は落ち着き始めたが、傷病手当では生活が立ち行かない。出社するしかない。ふたたび悪化した。
20代前半の女子だ。顔がそれでは、通常ならパニックになりそうなものだが、それどころではない。優先すべきは、見た目よりも、生き抜くことだ。顔がどうなろうと、筆者が働かなければ、家族が生活していけないのだ。

手も顔も皮膚がないものだから、痛くて眠れない。おまけに、新製品発売前ともなれば、連日残業の激務だった。
いつか治って、素手で、ペンを持てるようになるだろうかーーーそのことは考えないようにした。目の前の仕事で1個のミスも出さないこと。完全を期すこと。それだけに集中した。

パッチテストで原因が判明

父は入院中で、母は付き添いのため泊まり込んでいた。身内に相談相手はいない。
だが、筆者は、ふたつの意味で幸運だった。

ひとつは職種。内勤の技術職で、仕様書ベースで仕事が進む。見た目が悲惨でも、勤務できた。
もうひとつは、勤務先がホワイト企業だったことだ。
残業は多いが、残業代は全額支給。傷病手当もすんなり支給。経営陣は、同業他社に同じ症状の社員がいないか問い合わせてくれた。しかし、そうした者は見つからなかった。労働環境にじゅうぶんな配慮をして設計された、自社ビル。周辺の環境も、コピー室の広さや換気も、何ひとつ問題はない。にもかかわらず、なぜ? 経営陣も筆者も、途方に暮れた。

状況を打開したのは、皮膚科の研修医だった。ステロイドが著効しないため、原因を探ろうとした。「接触性皮膚炎だから、パッチテストをしたら、原因がわかるかもしれない。」
原因となるものの候補を、背中に貼って、皮膚の状態を見るという。「なにか心あたりのあるものを、数点にしぼりこめないかな」

筆者は数点の試料を持ち込んだ。

その中に、コピー用紙があった。現在使われている白い上質紙ではない。当時のコピーは、トナー式ではなく、ジアゾ感光式だった。図面を引いたトレーシングペーパーを、感光剤が塗布された蛍光色のコピー用紙に重ねて、光で写し取り、アンモニアの蒸気であぶり出す方式だ。コピー後は、蛍光色部分が薄い青に、図面の線が濃い青になる。そして歳月を経ると、記事冒頭の金魚の絵のように、薄い小豆色になる。そのため、このコピー方法は、青色コピー、青焼きなどと呼ばれていた。

パッチテストで、このジアゾ感光紙にのみ、反応が出た。原因は、コピー用紙の表面に塗布されている感光剤だったのだ。

原因物質から、完全に離れて。再生した、皮膚

曝露しつつ働いては、休む。その繰り返し。進退を考え始めていた日曜日、役員から自宅へ電話がかかってきた。
「近くに美味しい喫茶店があって今そこにいる。出て来ることはできないか。」
出かけていくと、珈琲をおごってくれた。「今後の勤務方法だけど、どうするかな?」単刀直入に切り出した。
「問題のコピー用紙を使わない職場として、2つ受け皿を用意できる。ひとつは大企業の総務部、安定した仕事だ。もうひとつは、技術ベンチャーへの出向。いま設立準備中だ。どちらに、する?」
迷わず後者を選んだ。

出向して、原因物質から離れると、すみやかに、手と顔の皮膚は再生していった。顔にシミが残ったが、髪に隠れる部分だった。

主業務が通産省助成の研究開発事業だったため、助成期間の3年が過ぎ、報告書を書き終えると、ふたたび役員に呼び出された。
「まだ、ジアゾコピーの代替方法は見つからない。新天地で新しい仕事を始めるのもいいとおもうけど、社長は配置転換で対応できないかと言っている。どうしますか?」
その頃、入院中の父の状態が悪化し、母は一人で看病に苦戦していた。介護者の、介護者が必要だった。退職を願い出た。
自己都合の退職だが、開けてみると、会社都合の規程の退職金が振り込まれていた。

数カ月後。葬儀が済み、落ち着いた頃、前勤務先の取引先から声がかかった。
JAGDA会員のデザイン事務所。もう手は完全に治っていた。ペンを持つことができた。イラストレーター兼デザイナー。ようやく、合成化学物質の影響を振り払った。

成人の基準と、乳幼児~子どもの基準

それから20年が過ぎた。
看護離職して開業した筆者は、ある日、プログラミング本の付録コラムを執筆していた。今後必要になるウェブシステムとして、自治体のごみカレンダーを例に挙げた。廃棄した場合に発生する有害物質について、詳細な情報を参照できるようにするものだ。
裏付けとなる情報を得るため、環境汚染物質について検索していたとき、おもわぬ情報に遭遇した。
リスク評価書の中に、ジアゾ感光紙の助剤の物質を見つけたのだ。

青写真用紙との接触の可能性もある。ヂアゾ複写用紙を使用すると、チオ尿素が表面コート剤から容易に遊離する。チオ尿素への暴露はヒトで接触・光接触アレルギーを誘発することがある。(出典:国際化学物質簡潔評価文書

この物質が原因なのか!それなら、同じ仕事に従事する者たちに影響が出ていないのは、なぜだ?それに、症状が、あまりにも、重篤すぎやしないか。

ひょっとしたらーーー筆者の乳幼児期、母が入院中の日々、父は小さな筆者を傍において、持ち帰り仕事をしていた。
ミスコピーを束ねて作ったメモ帳を渡しておけば、おとなしく、お絵描きに夢中。仕事に集中できた。

筆者が中学生になる頃まで、ミスコピーの図面の束は、家の中にあった。
それは、感光して定着した後の用紙だ。感光前ほどには、原因物質は残っていないはず。

それでも、触れているのは、子どもだ。成人が勤務時間中だけ曝露するのと、乳児から10代前半までの未成年者が曝露したうえで、さらに勤務時間中にも暴露するのとでは、暴露量が違うのではないか。
しかも、扱っていた図面が大きかった。電子部品のユニット化が始まった頃で、メインの回路図は幅2mにもなった。頭の上に感光紙を掲げて給排紙すると、顔にも手にも感光剤が付着した。
だから、筆者にだけ症状が出たのではないのか。

それは、台所用洗剤でも、同様かもしれない。小学生の頃から使い続けた。だから、アカギレなどという生易しいものではない、深い無数の傷ができたのではなかったか。

思いやりのある職場ゆえに、データに反映せず

会社員時代、パッチテストで原因は判明したとはいえ、機序は不明だった。それでも、勤務先の経営陣は、親身になり、調べ、働き方を考え、受け皿を用意して、最後には退職金を上積みして、送り出してくれた。元勤務先の人たちとは、その後も、仕事で会う機会があり、近況を伝え合うなどしていた。雇用者と従業員、技術者と技術者、人対人の、思いやりある交流。だから、筆者は、労災の申請を考えなかった。

雇用者側に誠意があれば、従業員は、勤務先を相手取って戦おうなどとは考えないものだ。従業員が、被害だ!労災だ!認めろ!と声高に叫び始めるのは、全例がそうではないにせよ、雇用者側に誠意が見られないからではないのか。

昨年末、複数の香害健康被害者たちが、香害への無理解のために、職場を去ったという。雇用者側が、香害原因製品ユーザーの雇用を、それがトリガとなって化学物質過敏症を発症した従業員の健康よりも、優先したかたちだ。
これから先、さらに同様の退職者は増える。勤務先の対応に、怒り、悲しみ、絶望する者が増えるにちがいない。

筆者は、元勤務先を、ホワイト企業だと書いたが、その対応は、ホワイトではなく社会のデフォルトであるべきだ。

もっとも、筆者が労災申請を考えなかったことで、医師が情報を上げるはずもなく、リスク評価書に掲載されなかった可能性はある。労災であろうがなかろうが、医師からではなく、患者から発信した情報を、集約するシステムがもとめられる。

仕事に必須の器官を損傷するということ。その痛みを、振り払え!

三度の飯より、お描きが好きだった。長じてイラストの仕事をしたいとおもった。そして、暴露により何年も中断したけれども、回復して、ふたたびペンを持った。今は、ワンオペ介護のために受託業務を見合わせているが、いずれ復帰するつもりだ。

必要な器官が損傷することで、夢を諦めるひとたちがいる。怪我や病気や後遺症が癒えて、元のフィールドに戻るひともいれば、異なる道を行くひともいる。人生設計の見直しは、大きな痛みを伴うものだ。

その痛みを乗り越える者は、強いわけではない。ただひたすらに、目の前に迫る、しなければならないことに、集中しているのではないか。健康な者も、病める者も、持てる者も、持たざる者も、誰しも、「その時点で、できることしか、できない」のだから。

すくなくとも、筆者は、そうだ。悲嘆に暮れたかといえばーーーそれは、なかった。自分の生き抜く力を信じて、その時点で可能なことを、それがささいなことでも、実践しながら、よろよろと歩いてきただけだ。
右手が使えないなら、左手で箸を持つしかないじゃないか。

そうしているうちに、周りが明るくなり、トンネルを抜けることがある。
どのような道でも、無心で、ただひたすらに歩く。それがおそらく、生きていくために、もっとも必要なスキルなのだ。


国際化学物質簡潔評価文書 界保健機関 国際化学物質安全性計画(PDF)No.49 Thiourea(2003)
nite 独立行政法人製品評価技術基盤機構 化学物質管理センター「GHS分類結果」62-56-6
職場のあんぜんサイト「チオ尿素」(改定日2006年10月23日)

厚生労働省「まんがでわかる 化学物質の基本」
危険性と有害性の違い、緊急措置、マスクの付け方、GHSラベルまで網羅してあり、理解しやすい資料。


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