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モノや知識が「タダ」になる理由。ネット社会と、コミュニティ ~2006年のコラムから~

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 このコラムは、2006年に出版した書籍「Visual Studio 2005 ASP.NET 2.0 Webアプリケーション プログラミング・テクニック(PROJECT KySS著)」の付録として執筆し、収録した長文コラム「Web2.x以降のWeb社会を読み解くためのヒント」からの、一部抜粋です。

 2006年に、3年後(2009年)以降の社会について書いた記事、という前提でお読みください。

 これからの「Web社会」については、多くの識者が方向性を示してくれている。それでもあえて筆者が書くのは、立場が違うからである。
 筆者は地方在住であり、Web社会には非常に縁遠い層の人々と直に触れ合ってきた。

 これから 「Web社会」を牽引するのは、ITに関心のある技術者やビジネスマンではなく、一般の生活者である。また、大都市に居住する者だけではない。それ以外の地域にも多くの生活者がいる。 この層の価値観や感覚を知ることには大きな意味がある。

 「Web社会」を、生活とは別次元のビジネスや技術の問題として捉えるのではなく、日常生活の延長線上にあるもの、むしろ生活を含むもの、として捉えた方がよいのではないだろうか。

「Web2.0」のインパクトは「XML」ではなく「無償化」時代の暗示 
 
 「Web2.0」という言葉は、端的で、広告宣伝効果を持つ素晴らしい言葉である。だが、「Web2.0」のインパクトは「XML度の高いWeb」にはない。「Web2.0」を境目として、それ以降のWeb社会が「無償化時代」に突入するということにある。

 XMLが技術者の間でブームになって5年が過ぎた。
 流行は3回やって来る。技術者の間に、ビジネス・パーソンの間に、そして、エンド・ユーザーの間に。

 新しい価値観が、突如現れたわけではない。既存の価値観をWebに合わせて再構築しているものもある。
 広告等から利益を得て、ユーザーには無料サービスを提供するという仕組みは、大昔からあった。広告枠はなかなか埋まらないものだ。これは、バナー収入だけではWebサイトの制作運営に関わる人権費をペイできにくい状況に似ている。

 いま、検索エンジンや、コミュニティ、ブログツール、ネットから利用可能なビジネス・アプリケーション、投稿作品を楽しめるシステムなど、あらゆるものが、エンド・ユーザーにとって、タダと化している。
 1個のアプリケーションという「モノ」を有償で渡すことにより成立するビジネスも、変わり始めている。

 さらには、技術者の知識やノウハウやサポートに対する対価までもが、無償へと引き下げられ、拘束時間で測ることのできる労働に対してのみ、かろうじて時間単価による対価が得られるという状況が加速している。

 サービスを受ける側が、できるだけ安価で取引するために能動的に動く。対面での値切りではないから、ユーザーの行動を見越して価格を設定しなければならない。入札やコンペでも、一定の基準というものがなくなり、短納期低予算が最大の勝因と化している。

 エンド・ユーザーにとって、無料や無償ほど、有難いものはない。
 多くのユーザーは、是が非でも入手したい品物やどうしても受けたいサービスであったとしても、できるだけ安価で済ませたい、と思っている。例えば、どんなに熱狂的な歌手のファンだったとしても、1万円で確保したコンサートのチケットに対し、そのステージが素晴らしかったからといって、さらに何万円もを支払いたいとは思う人は、ごく少数だろう。

 もはやこのユーザーの価値観を覆すことは出来ないということを、前提条件とする必要がある。
 現在はまだ、エンド・ユーザーにとっては無料でも、運営母体はスポンサー収入などによって成立できており、低予算とはいえ開発案件も成立している。

 問題は、「Web2.0」を境目として、「Web2.x」以降のWeb社会が「無償化時代」に突入するということにある。
 運営母体すら無償化問題に直面する。

 「Web2.0」という言葉の持つ重みは、「XML度の高いWeb」になどない。
 知識や経験や技術の無償化時代を生き抜くために、技術者が、技術研鑽以上に、いかにして生活の糧を得て、将来に渡って技術の仕事を続けていくかを考えなければならないという、生きる姿勢の転換を余技なくされることにある。

 優秀なプログラマたちは、運営母体の開発者という立場に身を置けば安泰だと考えて実行するだろう。だが、「無償化時代のWeb社会」ということを常に心の片隅に置くことをやめてはならない。 (補足。大手ベンダでもリストラがあるという意味だが、出版時点では適切でないと判断して言葉を濁した)

技術や知識は無償が常識の「ムラ社会」 

 知性や非物質には対価が支払われず、社会の中の皆の目が個人の行動を監視する社会。

 Web社会は、新しい価値観に向けて進化しているというよりもむしろ、一世代前、あるいは都市から離れた古き良き時代の価値観が残る「ムラ社会」になりつつある。

 筆者は、無償化時代には、「ムラ社会」のビジネスモデルをWeb上に確立した企業や、「ムラ社会」の中での居場所を確保できた開発者が生き残と考えている。
 「ムラ社会」では、技術や知識は、無償で提供するのが常識だからだ。

 例えば、筆者たち(=PROJECT KySS)は、Web制作を始めた後、1998年からの2年間を、人口1万人の四国の山奥の町で過ごした。コンビニもファーストフード店もレンタルビデオ店もない。町全体が1つの家族のようなところで、面識のない住人に対しても、冠婚葬祭の礼を尽くす。「この町では、無収入でも、死ぬことはない」という言葉さえ聞かれるような「ムラ社会」だった。

 筆者たちは、その町で、Web制作と書籍や記事の執筆の傍ら、パソコン教室を開いていた。もちろん受講料は安価に設定したが、知識は有料であるという概念を広めることから始めなければならなかった。噂を聞きつけた町民がレスキューを要請してくる。受講生の知人の知人の知人の...といった、面識のない人からの要請もある。サポート業務の対価は、無償の場合もあれば、野菜や夕食のおすそわけということもあった。

 ムラ社会では、サービスを提供する側と受ける側が同じ社会の中にいる限り、提供される知識や技術や情報は無料、というのが常識である。

 内部に既に存在するもの(山菜や川蟹など)、内部で生産できるもの(野菜や果実など)、内部にいる人の持つもの(知識)は、内側にいる者全員の共有物という価値観が根強い。
 また、ヒトの知性に関わるような、原価が明確には見えないものを金銭では評価することは、逆に失礼であるかのような考え方すら見受けられる。

 品物や労働に対して対価が派生するのは、社会の内側のものを、社会の外側に持ち出す場合、あるいは、社会の内側にはない品物を、社会の外側から取り込む場合に限られるといっても過言ではない。

 そこには、「Web2.x」以降を読み解く問題があった。 つまり、こういうことだ。

「社会の内側と、社会の外側で、品物をやりとりする場合のみ、金銭の授受が発生する。」

Web社会とリアル社会の境界は消える

 現在はまだ、Web社会を内側とすれば、その外側には内側よりも構成人数の多いリアル社会が存在する。そのため、内側(Web社会)と、外側(リアル社会)で、品物や労働のやりとりが派生すると、金銭の授受も発生している。

 ところが、今後は生活者全員がWeb社会に参加してくるので、「内側(Web社会)」=「外側(リアル社会)」になってしまう。つまり、内側と外側を隔てる壁が無くなる時が来るのである。

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 生活者の大半がWeb社会の住民になったとき、「社会の内側で流通するものは基本的に無料」というムラ社会の常識がまかり通るなら、品物や労働のやりとりすら金銭の授受に結びつかない社会になる恐れがある。そして全ての住民がWeb社会の内側にいる状態になった時には、企業の利益追求の姿勢は、住民の慣習と正面衝突するかもしれない

 現在の短納期低予算化は、このような無償化時代の前兆として、起こるべくして起こっている現象である。
 それが「起こるべくして起こっている」ように見えないとしたら、それは、内側(Web社会)にいる者の視点でのみ、この現象をとらえているからだ。ムラ社会の中で生活しながら、技術による収益を模索しなければならない立場を一度でも経験すれば、視点は違ってくるだろう。

 筆者たちは、知識や技術は無償で当然とする社会の中で、いかにして収益構造を作るか頭をひねってきた。そこで出した結論は、有償を当然と言えるだけのオンリーワンの技術の確立であり、有償でもその技術を使いたいという人たちと取引することだった。その結果、顧客は全て東京という結果となった。この行為は、開業後10年間の収益構造を作ってくれたし、今後もプラットフォームのバージョンアップや後進の指導といった仕事は、続くことになる。

 だが、それは、内側と外側の区別がある社会でこそ成り立つものであって、その区別がなくなった社会では無効である。そのようなわけで、筆者自身が新しい収益構造を模索中である。

 ただ、今後の収益構造のシステムを考えるために必要な視点を示すことはできる。
 それは、Web社会の一員としてWebを見るのではなく、リアル社会の一員としてWebを見る、それもムラ社会の一員になりきった視点で見る、ということだ。
 Webかリアルかという区別するのではなく、リアルがWebの中にあるという前提条件に立った上で、Web社会を眺めてみることが肝心だ。

有償化しやすい分野は、教育/福祉/基本医療

 無償が常識のムラ社会とはいえ、少しばかり有償になりやすいものもある。
 それは、「教育」と「福祉」と「(最先端ではない)日常的な医療行為」だ。

 労働に対する正当な対価を支払うという意味において、サービスを提供する側と受ける側のギブ&テイクの構造が、住民の目から見て分かり易い「必要不可欠なもの」は、有償化しやすい。

 広告宣伝や営業によって人の心を動かさなくても、社会の中で不可欠であり、人が自ら求め、感謝し、喜ばれる行為を提供して、対価を受け取る。ムラ社会では「直接社会の役に立つ良いことをして、お金をもらうのは、悪いことではない」という価値観が根底にある。「生命に直結=有償でも可、付加価値=無償」ということだ。

 この価値観は、現代のムラ社会だけでなく、昭和30年代頃までの社会にも少なからず似ているので、年配の技術者であれば頷ける面もあるのではないだろうか。ただし、当時とは、いくつかの大きな違いがある。

 1点目は、現在では、サービスの受け渡しに、インターネットを介したシステムが利用でき、広い地域でのマッチングをはかりやすいこと。
 また、ワールドワイドであること。全世界が内側の社会(Web社会)に含まれ、外側の社会(リアルのみの社会)の人がマイノリティになっていく状況があること。

 世界規模の災害や恐慌などでインターネットでの情報の送受信が混乱した場合は、マジョリティとマイノリティの立場は瞬時に逆転しないとはいえないが、それについてはここでは触れない。

 2点目は、教師や、福祉の提供者や、医師が聖職であるという認識が薄れてきていることだ。ムラ社会にはある、感謝や尊敬の念が薄いらいでいる。

 3点目は、提供される情報と、提供者自身の情報、提供される行為に対して、そのレベルや結果を事前に予測できないことである。

 ムラ社会での面談や噂による人から人への情報伝達では、情報の劣化という難がありはするものの、情報発信者を特定できた場合には、比較的正確な元情報を、発信者本人に直接会って確認することができる。
 しかし、Web社会では、情報発信者の匿名性が高く、元情報の精度すら曖昧で、誰が発信者なのか何が事実なのか特定することが難しいケースがある。

ムラ社会は、善意の上に成り立つ

 ムラ社会が、無償行為の上に成立しているのは、住民全員が、お互いに、他者の存在を脅かすことがない、善意の人だと、お互いに信じていられるからである。正当な方法で、社会的弱者を支援する仕事を有償化しやすいのは、そのためであろう。前述の、教育/福祉/基本医療も、社会的弱者を支援する仕事である。

 ここでいう社会的弱者には3種類ある。

 1つは、知識や情報格差により立ち遅れた、教育をもとめている人々。逆に、教科間格差のある個性的で浮きこぼれた学生。「一般的」でなければ、一見強者に見える者が実は社会的弱者であったりする。

 2つ目は、福祉の法の網からこぼれた人々。ユニバーサル化だけでは万人に100%の対応はできず、個々の状態に応じたバリアフリーも補足的手段として必要になる。情報を得る器官や解釈する器官にハンディキャップを持つ人々は、弱者になりがちだ。

 3つ目は、医療の必要な人々。身体的な健康を損い、日常生活に支障をきたしている人たち。

 この3者を支援する者は、ムラ社会の中で、安定したポジションを確保し、永くとどまることができる。

 「Web2.x」以降のWeb社会では、「教育」と「福祉」と「(最先端ではない)日常的な医療行為」に携わる者、あるいは、それらのテーマで新しいシステムを構築した者、「弱きを支援する者」こそ「強き者」=勝ち組になるという、逆転現象が起こり始めるかもしれない。「弱さが強さ」に結びつくのである。

 IT業界の先駆者たちが、学校教育の支援に注力したり、福祉に視線を向けることは、作為のない、尊い行為であろう。人を助ける能力のある人が、困っている人を目の前にしたとき、その能力を他者のために使いたいと思うのは、人として、ごく自然なことだからだ。
 だが、結果的には、広告による収益モデルを考える以上に新しい、先を読んだ行為となるように筆者には思われる。

 ホンモノの「実績主義」とは、出来る者が出来ないものの富を奪うことではないだろう。
 出る杭を打たずに活躍の場を保証することと、出る杭だけに多大な報酬を与える、ということは異なる。
 出来る者を疎外したり、その芽を摘むのではなく、活躍の場を与えてリードしてもらって全体を底上げし、その結果として得られた富を再分配することが、実績主義のメリットなのではないだろうか。

 「世のため人のためになることに技術を提供して正当な対価を得る」という当たり前のビジネスモデルが確立されれば、社会は暮らし易いものに変わり始めるかもしれない。

 ひょっとしたら、「Web2.x」以降のWeb社会では、人として当然のこと、人が社会のためにすべきこと、という、まっとうで、ごく当たり前の行為だけが、対価を得られる仕事として認められるようになるのかもしれない。

ネット自治会と、プライバシー

 ムラ社会は、ひとつのコミュニティである。Web社会も同様に、ひとつの大きなコミュニティを形成する。現在は、多くの小さなWebコミュニティが乱立しているが、今後は、それらが有機的に結びつき、市町村合併のように、ひとつの社会となっていくだろう。

 その予兆として、小さなコミュニティの質が、ここ数年、急激に、変わり始めている。

 「ネット自治会」のようなコミュニティが増えているのだ。
 昭和の時代の地域の自治会の、1カ月に一度の会合を、四六時中Webで開いているようなものである。特定のアドレスは、自治会館といえるだろう。ブログでのやりとりの中には、路地での井戸端会議を彷彿とさせるものもある。
 そこで交わされるテキストは、意味を持つ文章ではなく、符丁に近いものも多い。

 このような「ネット自治会」が広がる中で、我々の日常生活の中にはごく自然に、カメラという眼が侵入してきている。
 個人情報の流出に神経をとがらせる人が少なからずいる一方で、個人情報以上にリアリティを持つ生活そのものが、他者の眼にさらされようとしている。

 現在は、その眼は、高齢者の見守りや、銀行や交通の防犯といった特別な目的でしか使われておらず、生活上不可欠なものである。だが、カメラは、そのうち、第三者の監視の視線になり、日常生活は、公になっていくだろう。

 我々は、これを、プライバシーの侵害と呼ぶ。

 ところが、ムラ社会では、捉え方は異なる。
 私たちが「プライバシー」と呼ぶものは、ムラ社会では忌避される。
 家には鍵をかけず、親が子の部屋に入るときもノックをせず、知人が訪問したときには勝手に座敷に上がりこむ。それが自然なことであり、私たちが「遠慮」と呼ぶものは、ムラ社会では「水臭い」と言って、いぶかられる。

 つまり、カメラという眼があちこちにあるWeb社会は、ムラ社会の「常に誰かの視線がある」という状態に他ならず、単に、「ムラ」が、ワールドワイドになるに過ぎないのである。

 もっとも、このようなカメラのある社会は、Webが普及し始めてから言われ始めた問題ではない。

 少なくとも、20年前、難視聴地域以外にもCATVが普及し始めた頃から、共架柱問題とともに、将来の課題として、CATV事業者や関係者の間では、議論されていたことである。

 全ての電信柱と、CATVの端末にカメラを取り付けたら、地域や生活の身近な話題をリアルタイムで提供できるようになる。だが、メリットのみに目を奪われたらプライバシーの侵害や肖像権の問題が生じる。CATV事業者やネットワーク事業者は、どの段階で、何に対して、どのような手段で、制限をするのか。あるいは、制限をせず、何か新しい可能性をそこに見いだすことはできるのか。そういった議論が実際になされていた。

 この「どこまでをプライバシーと呼ぶのか」という自他境界の問題は、光ファイバーが普及した今、Web社会で論じられる問題にすり替わってきている。
 
 「Webが進化して、社会システムそのものが大きな変革を遂げ始めた」というよりも、「Webによって自他境界がオープンになってきたために、一昔前の社会システムの中に、地球市民全員を抱え込まなければならなくなった」と考える方が、妥当だろう。

 地域社会が変わればコミュニティは変わり、コミュニティが変われば地域社会も変わる。相互に影響を与えながら、Webは発展し、その上で行われるビジネスの形もまた、変わっていく。

 コミュニケーション能力とリーダーシップで「ネット自治会」を制した者は、「Web社会」を制するに違いない。

 だが、「ネット自治会」と化すコミュニティの中で、すべての人がリーダーになれるわけでははない。
 地域社会の中で自分の役割と居場所を探すように、コミュニティの中で、役割を探し、居場所を確保しなければ生きていくことは難しくなってしまう。いくら技術力向上にだけ注力したいと思っても、プログラマも、居場所探しに邁進しなければならないだろう。

日常生活に根を張ることが技術者の力になる

 以上のようなWeb社会は、住民の積極参加と善意を信じることができて初めて成立する―――識者や、新しいWebビジネスにチャレンジするビジネス・パーソンの基本は、楽観主義のようだ。
 楽観主義は、住民の多くが、正しい事実認識にもとづく、正しい判断をくだすであろうという予測の上に成り立つ。

ところが、正確な事実認識をできない脳(「認知のゆがみ」を引き起こしがちな脳)を持つ人もいる。多かれ少なかれ我々は正確な事実認識をできてはいないし、筆者だってその一人だ。しかしながら、それにしてもその正確性が極端にずれている人が増えているような気がするのは筆者だけではないだろう。

 正しい事実認識とは何か。例えば、身近な話をしよう。

 地方に住むプログラマのAさんは、同僚のBさんと、この1週間、東京に出張していた。昼食は毎日外食だった。6回は大満足できるもので、最後の1回は不満足なもので、二人とも同じ感想を持った。

 帰社すると、Aさんは、後輩に、「東京にある全部の店を食べたわけではないし、私個人の嗜好もあるから、正しい判断だとは思わないが、少なくとも6回は非常に美味しかった。不味かったのは1回だけだ。だから、全般的に東京の食べものは美味しいと思う」と言った。

 一方、同僚のBさんは、「東京のメシは非常に不味い、食べられたものではない」と語った。最後の1回の食事が不味く、Bさんにとってはその印象が強烈だったからだ。

 このように、情報のプライオリティは、情報を解釈する人によって異なることがある。データを全て同列で記憶した上で判断するか、印象の強いデータだけしか記憶していないか、あるいはデータを全て記憶してはいるが印象の強いデータにしかプライオリティを認めないか、は人によって異なる。

 Aさんはほぼ正しい事実認識をしているが、Bさんは、最後の不味い印象が、それまでの美味しいという印象を上書きしてしまっている。逆に、最初の印象がなかなか消えず、後でいくらおいしい店を食べ歩いたとしても、そのデータが上書きされないタイプの人もいる

 日常生活の中で注意して見ていると、このようなことは非常に多い。よく聞いてみると事実と報告は異なっていたということがある。

 もし後輩が、Bさんからのみ報告を聞き、社内に触れ回ったら、社員全員が、「東京の食事は不味いのか、出張するときは、事前においしい店を徹底的に調べておかなければ大変だな」と思ってしまう。

 この例え話はまだ食事が美味しい不味いの話でしかないが、人の価値や生命に関わる問題であったら、どうだろう?誤った事実認識に基づく群集心理は暴走し、冤罪を押し付ける事態に発展することすら考えられる。

 ムラ社会で、誰もが善良と認める発信者が、故意にではなく、認知のゆがみや、的確ではない表現のために、一方的な側面から見た事実のみを広めた場合を想定してほしい。どのような結果が待っているかは想像に難くないだろう。「喜」「楽」の感情をもたらす正の情報よりも、「怒」「哀」の感情をもたらす負の情報の方が広がりは速く、情報への反応も速い

 データのプライオリティを見誤るような認知のゆがみを持つ、しかし心根は善良な、親切でちょっとだけおせっかいな人たちを利用して、Web上の情報や住民の心理を操作する悪意の人間が出てくる恐れも十分にある。

 認知のゆがみは、特別なことではなく、時として、誰にでも起こりうる。筆者だけでなく、読者の皆さんも、非常に疲労している時、本を読んでいたりビデオを見ていても、肝心な部分をぼんやりやり過ごしてしまい、ふと気付いた時に見たり聴いたりしていた情報だけが頭に残っている、という経験をしたことはあるだろう。仕事があまりに忙し過ぎると、考えられないような凡ミスをしてしまい、気付いて慌てることもあるだろう。

 脳が疲れていると、誰だって、物事を正しく認識できない。

 ところが、そのような一時的な疲労からではなく、環境の変化によって、正しい事実認識をできない脳が増えているように筆者には思えてならない。そして、そのような脳を持つ住民もまた、発言権を持つネット社会の一員なのである。

 だから、技術者であっても、脳を誤動作させかねない諸々の要素、環境汚染や社会システムや教育の問題等について考え、生活の足元から見つめ直していかなければならないと考える。そして、それらを机の上で論じるのではなく、一人ひとりができる範囲で実践する必要があるのではなかろうか。

 納期に迫られるデスマーチの中で、次々と学ぶべきことが現れ、今後のネット社会での生き残り策を考えなければならず、その上生活環境のことまで考えなければならないのか?と思うかもしれない。

 プログラミングと生活環境の間には、一見何もつながりがないように見える。
 だが、我々の日常生活での1つ1つの行動が、環境を良くもすれば悪くもするし、間接的に、ヒトの脳を育てることもあれば誤動作させることもあり、認識や判断に影響を与え、めぐり巡って、IT技術者の仕事へとハネかえってくることになるのだ。

 プログラマが、楽観主義を持ち続けるには、技術研鑽と、日常生活を遊離させてはならないだろう。

「中心」のない、Web社会

 「Web2.0」で、Web社会への能動的な参加が進み、そして「Web2.x」以降は、参加の意思があるかどうかに関わらず、リアル世界の住民になれば、Web社会に自動的に参加している状態になってしまう。

 Web社会は、先にも書いたように、送り手と受け手の境界のない、提供者と利用者が同じ側にいる、ただ1つの社会であり、特別な新しい世界ではなく、「ワールドワイドになったムラ社会」である。

 Web社会には「中心」がない。どの場所でも、誰でも、世界の「クスコ(=臍)」になれる。

 この中心は流動的だ。視点を企業に置くのではなく、個人に置いて、これからの生き方を考えていけばいい。
 プログラマが、どのような仕事を、どのように行えば、これからのネット社会で生き残り、生活していけるのか?と自問自答するなら、まずは、自分が他者に、社会に、何を提供できるかということを、自分自身に問うてみる必要があるだろう。

 ネットという地球の上に、農耕と牧畜で住民がなんとか生活できるだけの糧を得られるような、社会が出来た。
 芸術や科学や技術が生まれる土台がようやく出来た。
 今から、新しい文明が生まれる。
 貨幣が出来、文明が出来てきた時代の、歴史をさかのぼれば、参考になる情報を見つけられるかもしれない。

 その頃、詩人や画家は、生活の糧となる農業や牧畜を営みながらコンテンツを作り、発明家は日々の労働の中で工夫を重ねていたことだろう。
 彼らがそれを生業とするモデルが作られた背景を探れば、教育、福祉、医療以外の仕事―――Webサイト制作や、コンテンツの制作と提供等―――で、口を糊して行く方法が見つかるのではないだろうか。

 私たちは、ネット地球文明の生まれようとする、生みの苦しみの只中に、生きているのである。

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"Change The Brain feat.Megurine Luka" IS OUT NOW!

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