オルタナティブ・ブログ > イメージ AndAlso ロジック >

ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

アーティストにもとめられる、倫理観。「ゆるい行学一致」、新しいライフスタイル。 ~ 絵と詩と音楽(n)~

»

変わる町なみ、変わる日本人の感性

1960年代後半から、突然、町なみが変わり始めた。
住宅の建設ラッシュ。しっとりとした黒土は姿を消し、ざらざらの赤茶けた土に置き換わった。路地までもがアスファルトに覆われた。
建物も、変わった。畳よりラグ、板間からフローリングへ。障子よりドア。雨戸は消えた。風雨からガラス窓を守るためだけでなく、多少は耐震壁の役割も果たしたであろう、重要なパーツが、消えた。

河川の護岸工事が始まった。葦の原は失せ、コンクリートで固められ、グラウンドが整備された。季節が変わり咲く花が変わり、年が変わり植物群生が変わる河原は、変化のない場所となった。
筆者は小学生だった。周りの大人たちに、河岸段丘を崩す価値と意義を尋ねてみた。誰ひとり関心を示さなかった。疑問すら抱かず、受容していた。

数年も経たぬうちに、殺伐とした光景が出現した。
色が失せ、風が失せ、香りが失せた。
感性が平板化していく。繊細は神経質と揶揄される。
変えるべきものと、変えてはいけないものが、逆転した。
雑草1本生えぬ道に美を見出す感性が、醸成されつつあった。
多くの大人たちは、きれいに整備された、と喜んでさえいる。

この国は、いずれ、モノあふれと公害と拝金主義に倒れる。それは地球規模の余波となる。われわれ子どもたちは、絶望に向かって歩くのだ。暮らしの中にあったはずの、「美」を「驚き」を、剝ぎ取られながら。

10歳。図工の授業。画用紙にマーカーで、フリーイラストを描いた。タイトルは「地球が、モノと公害で全滅...」。絵は花丸の「A」のハンコが押されて返ってきた。それだけで終わり。筆者がほしかったのは評価ではなく、大人たちが自らの美意識を問いただす姿勢だったのだが。
子どもが疑問を感じ、大人たちが答えを持たず、しかし進んでいくこと、それは、大人の事情ってものだろう。小学生の筆者には、知る由もなかったけれども。

未来を問う。それは、気づく者の役割だと悟った。たとえ周りに、誰一人理解者がいなかったとしても。

エネルギーを使う、アーティストのライフスタイル

昭和の時代、景色は変われど、人々の暮らしは、まだ、慎ましかった。
海外渡航者は、1学年につき、ひとり、ふたり。地産地消が基本で、輸送に使われるエネルギーは限られていた。フードマイレージという言葉はなかった。

海外出張も珍しく、国内で完結する生活。英語は、中学生になってから学校で習うもの、だった。
英語教師にも、留学経験者どころか海外渡航者すら珍しい。発音はといえば、カタカナ英語。これに危機感を持った生徒たちは、洋楽を聴き始めた。ラジオを聴き、レコードを買った。

筆者も、友だちのすすめで、英語が母語の歌手を探した。ネットも、パソコン通信すらない時代。リソースは、紙媒体だ。
新聞の広告欄に「大自然を歌う吟遊詩人」というコピーを見つけた。John Denverだった。日本では「カントリーロード」として知られる「Take Me Home,Country Roads」の共作者3人のうちの一人だ。
海洋調査船カリプソ号を讃える「Calypso」、ヒトと自然の相互の包含関係を表現した「Summer」、ヒトの多様性を積極的に肯定する、Joe Henryの詩に曲を付けた「The Wings Fly Us Home」......だが、愛聴しつつも、違和感がつきまとった。

大自然を、鷲や鷹を歌いながら、自家用ジェットの操縦を楽しむ。エネルギー問題が語られることはない。John Denverの父は軍のパイロットだったという。父と同じ道を志したが視力不足で断念したという経歴。無念ではあろう。しかし、それでも。
オイル備蓄騒動を、Asahi Weeklyで知った。雄大な自然の中に建てた邸宅、その広大な土地に、大量の備蓄。周辺住民とトラブルが発生しているというものだった。
自然賛歌と、大量のエネルギー消費。そのライフスタイルに疑問が膨らみ、いつしか聴かなくなった。入れ替わるように、社会風刺のシニカルな歌を書く、Nik Kershawの歌を聴くようになった。
そして、1997年、John Denverは、操縦桿を握ったテストフライトで、大西洋へと沈んだのだ。

作品だけを見るべきなのか。作品では語られないライフスタイルも、アーティストの価値に含まれるのか、否か。

費用対効果が押し上げる、アーティストの活動による環境リスク

髪を染め、化粧をして、ネイルをして、歌うアーティストたち。生分解しない素材のセットのような衣装。まばゆい電気。大量の資材を投入した、きらびやかなステージ。輸送のためのエネルギー。それに応じた廃棄物も出るだろう。
アリーナで1万人以上、6大ドームが5万人~8万人超だという。飲食にともなうものも一般廃棄物ではなく事業系廃棄物として扱うようだ。

とはいえ、それによって、生きる希望やエネルギーを得るファンたちがいる。ひとつのイベントの周りには、口を糊する多数の業者がおり、その家族たちがいる。
社会の利益と環境負荷による損失を、単純に比較することはできない。アーティストたちが環境保護を訴える場合、活動にともなう排出量と、感銘したファンたちによる削減量の差も、考慮せねばなるまい。パフォーマンスがステージで完結するぶんには、均衡するのかもしれない。

しかしながら、イベントの背後に企業の企図がある場合、その均衡は容易に崩れる。環境負荷はステージの外に及ぶ。
マーケターやプランナーたちが、アーティストを採用して、ブームを作る。売りたいのは、アーティストのパフォーマンスや作品以上に、自社のイメージや製品だ。
CM、雑誌広告、デジタルサイネージ、企業コラボレーション。費用対効果を計算のうえで、消費者を誘導する。

アーティストたちは、知ってか知らずか、化学物質満載の製品の宣伝を担うことがある。
リアルに反映するブームは、ファン以外にも拡大する。アーティストに関心のない者まで、宣伝された製品を、深く考えることなく手にとる。
大量の環境汚染物質が製造され、使用され、流出する。短期間で環境問題が噴出する。

そのひとつが、現行のナノテクノロジー利用の一般消費財だ。
2000年半ば以降、官民あげてナノテクノロジーの普及にいそしみ、一般消費財への適用が進んだ。その負の影響は、以前の製品とは比較にならない。

悪化した環境で暮らせば、影響は人体に及ぶ。
アーティストやタレントの熱心なファンの中には、宣伝された製品によって健康問題を抱えるひとたちが出始めている。彼らは企画の見直しを懇願するが、見えない壁に阻まれている。
その壁は、人間でできている。潜行する身体へのダメージに気付いておらず、環境問題を深刻にはとらえていないファンたちだ。同じアーティストを応援していたはずのファンたちが、分断されている。

スタジオやステージの外へ。宇宙に飛び出す、環境問題

アーティストたちの活動は、ステージにとどまらない。
セミナー、式典、講演会、展示会、スポーツ大会、各種イベントに花を添える。彼らの存在そのものが宣伝効果を発揮する。

さらに、活動範囲は、地球にとどまらない。
かつて、John Denverは、宇宙旅行を夢見た。宇宙から地球を見れば、新たな視点を獲得して、新しい歌を作ることができると考えたのだ。それから30年、宇宙旅行は、アーティストたちにとって、手の届くものになりつつある。

近未来、現在の地球での環境問題は、そっくりそのまま宇宙へ及ぶ。地球は、どのエリアを切り取っても、金太郎飴と化した。次は、宇宙。新たな観光地だ。

宇宙船の中でのアーティストの奇妙な食事は、新規性のある情報として消費される。スペースコロニーでは、限定ブランド品が販売され、商品情報が消費される。数時間から一日のトレンドとなり、日常に倦むひとたちを熱狂させる。そうした情動を喚起するために、膨大なエネルギーが消費されるだろう。

グローバル化とは、特定のライフスタイルを礼賛して、風土にねざす多様性を消し去ることだったのか?
昭和の時代、雑草の生えた黒土より、草1本ないアスファルトをもとめた大人たちのように、美意識は画一化される。四季の微細な情報を捉えられなくなった生体。感情は平板化する。人々がもとめるのは、より斬新な刺激、より強いストローク、驚きをもたらす情報だ!

観客動員数は、人気の指標ではある。だが、逆にアーティストの人気が、生体リスクや環境リスクを押し上げたとき、それは、ステイタスとなりうるのか。
爆買いや邸宅や飽食や宇宙旅行は、どこまでがアーティストの仕事で、どこからが個人の領域なのか。
どこまでが文化で、どこからが浪費なのか。
アーティストの影響力と環境負荷の関係を、どう捉えればいいのか。

経済を回すために、ヒトが動き、モノが動き、モノに付随する情報が動く。
生体が、社会が、許容できる範囲を、心ある研究者たちが後追いで調査する。爆増する化学物質に、追い付くのは困難だ。まるで、われわれは、奇妙な迷路から脱出できなくなっている、実験動物のようではないか。

ゆるい行学一致。新時代アーティストの、バランス感覚

これから先、アーティストたちは、どのようなライフスタイルを目指せばよいというのだろう?

ロックバンド「TERROR SQUAD」のありかたが、そのひとつの回答となるかもしれない。「6弦のカナリア」ギタリスト大関氏の所属するバンドで、おもに都内のライブハウスに出演している。
大関氏が、日用品に含まれる有害物質を感知することから、本人をはじめ、バンドメンバーとその家族たちは、環境負荷の低い製品を使っている。
「TERROR SQUAD」が、日用品公害の原因製品の宣伝に手を染めることはない。ファンを失望させることはない。

とはいえ、彼らは、環境問題について、完ぺきではない。酒も飲めば、インスタント食品も食べる。「ゆるい行学一致」ともいえるライフスタイル。過激さはない。先鋭化することもない。一般消費者として、ゆるり暮らしつつ、アーティストとしては、厳しい顔を見せる。熟成させながら完成度を高めていく手法で、寡作にはなるが、隙のない楽曲を発表している。経済原理に支配されたこの社会で、その姿勢は特筆すべきものだ。

かつてアーティストたちは、一般消費者とは隔絶された領域に漂うことができた。人と作品は別物だった。いかなる行動をとろうと、アートの域として受容されていた。
それが、変わった。他者の生命に影を落とす行動は、SNSや動画サイトで拡散される。ファンでなくとも知るところとなり、受容される範囲は確実に狭まっている。

将来的には、大掛かりなステージもVRによる中継が増え、物理的なメディアは生分解可能な素材に置き換えられる。廃棄物は減る一方で、デバイス製造のための負荷は上がる。分解できない素材は残り、処理すれば有害物質を発生させる素材も残る。トータルでは、環境負荷は微増するのではないかと見ている。

環境負荷を低減させる方法として、実現可能性が高いのは、来場者のマイレージが小さい近場での、生演奏を強化するシステムだろう。

メタルの世界では、平日は社会基盤を支える仕事に従事して生計を立て、週末にはライブハウスで演奏するというプロが少なくないらしい。
大関氏は、この業務形態を「ウィークエンド・ロックンローラー」と呼ぶ。

決して目新しい形態ではない。旧来からあったものだ。ヘルマン・ヘッセ「クヌルプ」に、地域のダンス・イベントの描写がある。
町に小さな楽隊がやってきて奏で、住民たちが集い、踊り、ひとときの交流を楽しむ。
日常の中に訪れる、変化。小さな、祭り。
この楽団員たちのように、小さな会場で、暮らしのなかのハレの日を提供するのだ。

エッセンシャルワークに従事しながら、作品を創り、発表し、体温のある演奏を披露する。
以前、書籍のコラムで書いたように、ネットとリアルが重なるとき、アーティストたちのライフスタイルは変わる。
一周回って、古代の文明が始まった頃に戻るのだ。

fairy.jpg

(「春の子ども」2000年、Welcome2000 ワンページフェスタ」応募要項説明ページに使用したもの)
Comment(0)