いま読み返したい震災直後に綴った身近な体験談
2年前、震災翌日の3月12日、”記憶が薄れないうちに” と私が開設した震災体験談を募るページに、22件の生々しい体験談が寄せられました。 強い余震が続き、また原発事故の深刻さが伝わってきてない中、主に東京近郊の方々から体験談です。
震災から2年。体験を風化させないために、身近な体験談を転載させていただきます。
なお、オリジナルのページはこちらです。
1時間半後に、品川駅からの退去命令がでて改札へ。品川駅のロビーの吹き抜け天井の上部証明の一部ガラスと電球落下防止のための鉄枠が落下していた模様で、駅側がパニック状態。避難先も伝えず、とにかく駅構内から退避せよ、とヒステリックな放送および数名の駅員がメガホンで叫び続ける。行き先ないまま外に出るのは更に危険、かつ人ごみを歩くのは無理と思い、僕は改札近くで皆の様子を観察していました。
30分後くらいになって、ようやく駅員が松葉杖の僕に気づき、JR事務所内の救護室横の廊下の椅子に案内してくれた。そこでは、主にご高齢の方々と共に、TVニュースを見つつPCからの情報をご老人たちに説明して過ごしていました。
夜になって連絡がとれた知人のの品川オフィスに移動。ネット環境がよく、USTREAMでNHKニュースを見つつ横になりながら朝まで待機。
東海道新幹線が始発から正常運転を始めたことを確認し、品川駅から新横浜の自宅までやっと帰り着き、昼まで寝てしまいました。
地震、津波、火災の被害が甚大ですが、原子力発電所が大変な状況になっていますね。福島、東海村等の原発村周辺の直接被害ももちろんのことですが、中長期的に電力の絶対的不足が発生する可能性が高く、ITインフラ、通信インフラがどうなるのか?それを支えるデータセンターがどうなるのか、と心配しています。
ビッグサイト「JAPAN SHOP展」で私の生涯最大の地震に出会いました。会場は騒然となり、しゃがみ込んで泣き出す若い女性もいました。やっとのことでバスに乗れましたが、のろのろ運転で2時間かけて東京駅に付き、その後はさらに2時間かけて歩いて帰りました。
感心したことは三っつ。
電車が全て止まり、バスに長蛇の列ができたのに、みんな極めて冷静だったこと。大声を上げる人もなく、列を乱す人も皆無でした。
町を歩く群衆のマイルストーンになったのが、あちらこちらにあるコンビニでした。他の店は早々に店じまいしたのに感心です。
私の正明ビルのエレベーターは停まってしまっていましたが、夜12時頃に管理会社の若い人が来てすぐ復旧してくれました。
昨日、14時46分地震発生時は東武野田線の車両に乗っていました。増尾駅に停車して、ドアーが開いた時に車両が大きく揺れはじめました。
乗り込んでくる乗客がびっくりしながらホームに戻ろうとする表情、座席に座って
いた人が立ちあがろうとする表情が印象的でした。私は大揺れに揺れる車両の中から、寺の屋根の変化を見ていました。屋根瓦が落ち始めたら車両を出ようと思っていました。が、屋根瓦に変化がなかったので、車両の中がよいと座席に座っていました。
乗客は皆、携帯で情報の収集に忙しく、ワンセグでTVの画面をみていた高校生が
震度7の地震だと声に出したので、周りの乗客が一斉にこれは大変だと携帯にむかい、あわてて連絡を取っていましたが、すでに携帯は「お待ちください」の画面しか反応がなく、一同不安顔ながらも車両の中の見ず知らずの人とコミュニケーションを取り始めていました。
この時間はわずか5分ほどの出来事でした。
10日の夜中にニューヨークから日本に到着した友人と山下公園を望むホテルのレストラン(1927年築!)でランチを終え,コーヒーを飲んでいる最中に地震を体験。ホテルの方は外に出ないように指示されて、机の下に隠れたりして(それが果たして良かったのかは解りませんが)揺れをしのぎました。
その後山下公園近くで、余震が来たときは目の前の大きな樹々が大きく揺れていました。その時はまだあまり事の重大さを認識したいなかった私たちは,近くのコーヒーショップで地下鉄が復旧するまでと、お茶をしていました。
すると警察の方がメガホンで、水が引いていていて、いつ津波が来てもおかしくないので,港から少しでも離れるようにーと言う指示をして回ってきたので,友人と小走りに中華街を抜けて横浜スタジアム方面へーこのとき,シャッターを閉めて早々に避難するお店がある一方で,黙々とおまんじゅうを売り続けるお店あり、手相を見続ける人たちがあり、ものの考え方の違いを見た思いでした。
結局,夜の10時ごろまで関内近くのホテルのロビーに詰めていましたが、電車が終日運転を見合わせるという情報を聞き,結局、家族に車で迎えに来てもらい、友人ともども横浜の実家で休むことが出来ました。
混乱の中で,みんなが携帯電話を使って,仙台空港の映像を見せてくれたり,ツイッターを見たりと、本当に情報の伝わり方が,昔と違うな,と感じた一方で(私は普段のアメリカ生活であまり携帯を電話とメール以外のことでは使わないので、本当に日本の携帯の日常の使われ方にびっくりでした)、以外にも公衆電話であるとか,究極的には遠くから歩いてこられた方の経験話であるとか,昔ながらの情報伝達方法にすごく頼っていた自分を思い返します。
この末端まで行き届いた携帯電話等のデバイスを使ってコミュニケーションを図ったり,情報を収集するということ,そして人間の脳が,如何にそれをまとめあげて(スカルプトして)生身の人間の為に有効活用するか,ということが今後の社会で大切なトピックになって行くと実感しました。
神楽坂の袋町の勤務先で地震発生。すごい揺れてる~と顔を見合わせるばかりで足が動かない。「このビル古いから外へ出た方がよい!」と別の同僚が叫んでくれようやくみんなで外へ。「ガラスから離れて!」と別の人が叫んでくれて細い住宅街の道の真ん中に立ち尽くすだけ。事務所のある出版会館(築約40年)がみっしみっしと音をたてるたび体を寄せ合い怖がるだけ。全く無力。
いったんおさまりまた中へ。実家が釜石で本人は海外出張中の友人にメール連絡。
コート着てリュックに水を入れまた外へ。携帯電話は通じない。またビルが音を立てて揺れる。怖い。別の同僚が「避難しよう、近くの学校が安全では?」声掛け合ったが3人だけで避難。近所の愛日小学校へ歩いていく途中、工事現場で普通に工事を続けているのが不思議だった。小学生はきちんと訓練されていて防災頭巾などかぶってクラスごとに先生の指示に従っている。親が迎えに来ている場合もあった。4時過ぎ児童は解散となり私達も事務所に戻った。
仕事はもうやめようということになり私は自転車5分なので帰宅した。途中パン屋とコンビニに寄ったが普通に通常営業だった。
家の中はひっくり返っていて呆然、途方にくれるとはこういうことか。神戸の時は離れていてここまで実感なかったなと反省。
家は木造3階建ての3階部分で閉じ込められるのが怖くて玄関を開けたままダウンジャケット着ながら、テレビとネットで情報収集しながら、半分ぐらい片付けてから事務所へメール
「帰宅困難ならうちに来てください」(電話はずっと通じないので)
1人だけ来てくれた。夜1人でなくて逆に心強かった。各国から温かなお見舞いメールをたくさんいただきこれも心強い。京都の母や妹とは携帯電話もメールも通じる。友人同士で連絡とりあい無事を確認。
何をしてよいかわからず、三陸地方の知人友人に「どうぞご無事で」とメールを送りまくる。
23:50気仙沼が火の海になっているのを知り胸が締め付けられた。仕事で米国教員と一緒に去年6月に訪問し地域の方々に大いにお世話になったのに、何をすべきか、何ができるか、わからない。
リュックもって靴はけばすぐ外に出れるように着の身着のままで布団に入るがもちろん眠れない。
1:20気仙沼火災の原因がようやくわかる。クリントンが冷却材を送った。ドナルドレーガン向かってる。志津川孤立、火が迫ってる。陸路は津波で消防無理。空から消化剤を落とすとかだめかしら?などSkypeで友人と怖い思いをまぎらせるために情報交換・アイデア交換しつづける。
3:30-5:00は三陸、茨城、千葉とどんどん南下してくるのと、日本海側、長野でまた別の地震で、もうほんとに怖くて、三陸地方の知人にメールしまくる。もちろん何の役にも立たない。
テレビつけたまま夜を過ごし朝明るくなってから少しだけうとうとした。
ガスも水も電気も使えて東京はまだましだ。泊まってくれた同僚は午後首都圏交通がましになってから戻っていった。
釜石友人には、テレビで釜石が写るたびに自分のカメラで撮ってYoutubeにアップしてメール、知ってる場所?知ってる人いる?と繰り返すが、遠くで心配しながらも仕事中なのでしょう反応なし。
被災地は寒さを防ぐ衣類や食料・水が不足して電気水道ガスももちろんないが情報ないのが不安なのでは?家族と連絡とれない、家族に無事を知らせられない、と報道で写るたびに言ってる。通信は後回し?
それなら被災地に行ってる報道各局が、各避難場所でカメラセットして「みなさん並んで!1人30秒!家族に向かって無事を知らせて!」と撮って放映してあげれば?それを聞いた友人は早速各局へメールしてくれたが効果ありや?
釜石友人には地域密着ニュースセンタがよいかしらと思い http://twitter.com/IBC_online やら http://www.iwate-np.co.jp/index.html を送り続ける。http://japan.person-finder.appspot.com/ を紹介するとやっと「やってみる」と反応あり。心配している側の情報はたくさん入るが、被災地にはネット環境がないからやはり無事のお知らせはできないか。
ワープできるなら、ぜひうちに避難にきてほしい。
陸は無理だから、鳥になって飛んでいって鳥になる魔法をかけて飛んで安全な場所に連れて来てあげたい。
何ができるか考えないといけないのに。。。落ち着かないばかりでほんとに無力です。
3月11日はたまたま自宅で仕事をしていて、事務所に出かけようとしたときに地震が起こった!初めての揺れの大きさに、テーブルの下にもぐった。棚から次々にものが落ちる!食器が割れる音がこわい!「とうとう来た!」地球が怒っているのだとテーブルの下で、早く揺れがおさまることを祈るのみだった。
外でアナウンスが聞こえた。
「こちらは目黒区役所です。外へ出ないでください。荷物をまとめて待機してください。」と言っている。その指示に従って、荷物をまとめ始めた。現金、通帳、水、簡単な食料、非常持ち出し用のリュックを開くと、2000年頃に作ったものらしく、すべてが消費期限が切れていた。
ともかく、バッグ一つに大事なものをまとめた。そこへ母がデイサービスから戻る。送って来てくれたスタッフの人も私がいたので、安心した様子。「大変なことになりましたね。」と声をかけると「一人暮らしの方がいるので・・・」と心配そうにしていた。一人暮らしのお年寄りはどうするのだろう。
福島の原発、女川の原発、行方不明の人たち、救助を待つ人たち、さまざまな二次災害、3日以内に震度7程度の地震が起きるという気象庁の発表。まだ、何も終わっていない。放射能を体内に吸収しないためには、昆布、わかめなどのヨード類を食べるといいとのメールが友人からきた。東急ストアはワカメが売り切れていた!
放射能汚染については、チェルノブイリのかけはし http://www.kakehashi.or.jp/をみてください。
岩手県岩泉町は相変わらず連絡がとれないようで、まったく状況がわかりません。どなたか知っていたら教えてください。
『ふたつのホテル』
3.11(金)PM2:46
丸の内にあるホテルのロビーで地震に遭遇。免震構造の27階にあって構造体で振動を吸収する建物なので、他の高層ビルより揺れ幅が大きい。千鳥足で足元が安定しないという感じ。。酔っているという感覚。。。
ロビーではホテルのスタッフが行き来しスタッフ間で話をしたり、無線で連絡を取るなどしているが、顧客に対する目立った指示等の動きはない。客室で装飾品が落下しているのか時折「ガッシャン!」という音が鳴っていた。
ロビー上部に大きな吹き抜けがあり、壁面はガラス張りで意匠対策と思われる装飾物が設置されている。「あれが落下したらひとたまりもないな。。。」などと考えていた。
大きな揺れが収まり、すぐ携帯で電話したが既に規制がかかっている。携帯メールは発信できたので、安否確認のメールを数件打つ。横にいる知人がイーモバイルでネットがつながることを確認、速報で震源・規模・震度等を知ることとなる。ホテルのスタッフは内部の状況把握に手一杯の様子で、外部から情報収集する様子は見受けられない。小生もPCとイーモバイルを取り出し、家族・取引先・知人にメールを送信し、こちらの無事と今後の連絡手段の優先順位を送信した。
いろいろなことが頭に浮かぶ。午前中に首相への外国人からの献金が発覚していたが「これで政権はしばらく続くんだろうなぁ。」と漠然と考えたりしていた。
余震が続く中、ホテルのスタッフが先導し27階から非常階段を利用して建物の外に出た。外に出る直前、ホテルからペットボトル入りのミネラルウオーターが配られた。全国展開するホテルなのでリスクマネジメントに関するマニュアルがあるのだろうが、肝心なときに機能していない印象を受けた。有事には情報を集約して采配を振るリーダーが必要と考えながら階段を下りる。
徒歩で丸の内から有楽町を経由して日比谷へ。時間を経るごとに人出が多くなる。JR・メトロ・都営等交通機関は全てストップ!都営バス乗り場やタクシー乗り場には既に長蛇の列!
途中、帝国ホテルへ入ってみる。
既に1階ロビーは人の海!ウミ!うみ!格式あるホテルのロビーとはとても思えないくらい、人でごった返す。ただ、宴会場から運ばれたとみられる椅子が整然と並べられ、年配のご゙婦人を中心に腰掛けている。カーペットに直接座っている方も多数いた。ウエイターが水の入ったグラスを持ってみんなに配っている。混んではいたが混乱した様子は見られない。
地震の最中とその少し後というタイムラグはあるが、二つのホテルの対応は対照的だった。
伝統や格式は一朝一夕にはできない。こういうところで差が出るのだろう。。。と。
人波の帰路でそんなことを考えていた。
末筆になりますが、被災した皆様にはお見舞いを申し上げます。
私たちも今後の余震、二次災害等に気をつけましょう。。。
神奈川県 小学校担任。
授業が終わり、「さよなら」をした直後地震発生。
20名程の児童が教室におり、窓を開け机の下に入るよう指示。支援級担任が教室にたまたまいたため、後をお願いし揺れる中玄関まで走る。
校門前で7名程つかまえて、そこでしゃがませていた1年生と共に避難させる。
揺れが少しおさまったところで、教室に戻り防災頭巾をかぶらせて校庭へ避難。
私のクラスの4名下校してしまったことが判明。しばらくしてようやく電話がつながり無事を確認。
一斉集団下校開始。300名くらいの保護者と共に付き添いながら下校。
家に誰もいない児童50名体育館で待機。電話がなかなかつながらず大変だった…職場から保護者もなかなか帰れないと連絡があった。最後の児童の迎えは21時。
子供は様々。
怯えて泣く子。変に目立ちたがりはしゃぐ子。
特に高学年は、「なんで上履きで帰らなくちゃいけないんだ」と文句を言ったり、ふざけたりしてかなり怒らなければならなかった。
繰り返し流れる映像を見ながら、ここでこれだけ大変だったため東北の学校の大変さは計り知れない。
今回のことで、命をあずかっている責任の重さ、怖さをつくづく実感。そして、頭ではわかっていたが、我が子には付き添えない辛さを味わった。
1人でも多くの人の無事を祈るばかりです。
当日私は渋谷の某社13F で会議中でした。
概ね会議が終了し、最後にやるべき事の確認をしているときに
揺れ始めました。
当初はまぁ普通に終わるかなと思っていたのですが、かなりの
揺れに。しかも会議室には非常に大きな窓がありそこから見える
反対側のビルが凄まじく揺れています。
男性数人でドアを開け、導線を確保。一旦小康状態に揺れがなり
これで終わりかと思ったら再度大きな揺れ。
窓から見える対面ビルの避雷針は150度くらい揺れ動いています。
地上に目をやるとたくさんの方が外にいて、ものすごくそこに行きたいと
思いました。
そうこうする内に揺れが止まり、1Fまで非常階段を降りる。
既に非常階段の壁が一部崩れている状態。しかも8Fくらいからは渋滞。
小康状態でなければどんなパニックになるのだろうという感じでした。
その後渋谷から、新宿の自社まで戻り中を見て唖然と。
キャビネは倒れ資料は散乱。PCも散乱、植木も...社員を帰し、私は
1人で最終的に朝までいたのですが、4時過ぎの緊急警報はかなり心的に
厳しかったです
とにかく元気に仕事をして経済活動を回し、それが復旧活動に
繋がればいいと思ってます
みなさま頑張っていきましょう
被災者の方々ご家族ご友人の方々、本当に心よりお見舞い申し上げます。
残念ながらお亡くなりになった方々、お悔やみ申し上げます。
さて2011.3.11 14:46 私は自社オフィスのある大崎の高層ビル18Fにいました。
突然の揺れにも、最初は冗談交じりの会話も交わしつつ事が過ぎるのを待っていましたが、なかなか終わりません。その内(よりにもよってこんな日に)窓を掃除していた業者さんを乗せたゴンドラがゆらゆらと揺れる光景を目の当たりにし、周囲のメンバーも『あぁ危ない・・』ともらすのがやっと、絶句。もう少し先を見ると、キャッツ跡地に建設中の高層ビルで、クレーンに吊り下げられた部材が建物にガンガン接触していました。
ようやく収まり情報収集をしていたとき2回目の大きなゆれが!この時ばかりは私も大きな声で叫んでいたようです。窓際のテーブルでMTGをしているメンバーには『危ないから離れろ!』、近くのスタッフには『机の下に入ろう!』。
私の声が一番うるさかったと後で言われましたが、あのとき私の頭の中にはまず、1.17阪神淡路大震災の記憶が。震源からかなり遠い東大阪市で被災したのですが、あのときの突き上げる衝撃と建物のきしむ音が忘れられません。
次に思ったのが9.11世界同時多発テロ、私が居たビル内部は倒れるものも無く落ち着いていましたが、一度どこかできしむ音が聞こえ始めたらヤバイぞ!と心で思っていました。ビルが倒壊したら命は無いと、そう思うと手が震えて足もすくんでしまっていました。本当に何事もなくてよかった。安全なビルを作ってくれて助かった。家族も無事でよかった。
そうこうしているうちに、台場からは黒煙が、千葉方面からはコンビナート火災の様子が肉眼ではっきりと見て取れました。助かった自分と対象的に、少し先での大きな被害、本当に遠くでのこの世のものとは思えない惨劇。
歩いてかえる道すがら、東京は電車が止まって道に人があふれているけど平和だなと思いました。それよりも、台場は?千葉は?東北はどうだ?という思いが消えませんでした。阪神淡路大震災のとき、はっきり言って何もできなかった自分。何もしなかった自分。今回はそんな自分を越えたい。絶対に何か力になれることがあるはず!そんな思いで今はいます。
地震発生時、私は田町にある会社のオフィスにいました。
鉄筋コンクリート造りの、35階建ての6階。1996年に建ったビルですが、ミシミシというきしむ音が聞こえ、立っている人がバランスを崩すほど揺れました。
窓の外に見えるホテルも波打つように揺れていました。
直後から、オフィスの中では、社員同士の安否確認とともに、
携帯電話のワンセグやインターネットのニュースサイトなどで情報収集が始まりました。
Twitterを見た人が、「横浜で大停電発生、とツイートされてる」と私に言いました。
私の自宅は横浜で、その日は母親が一人で過ごしているはずでした。
私は家族の携帯電話に電話をかけましたが、案の定混雑していてかかりません。
18時ごろに、会社の固定電話から自宅電話にかけて、初めて通じた以外は、
固定・携帯の通信サービスは混雑していて、利用できない状態でした。
(災害伝言ダイヤル171も無理。18時以降も基本的には電話は通じませんでした。)
母によると、横浜では地震発生直後から停電となりました。
ラジオ付きの懐中電灯がありましたが、使い方が分からなかったようで、
母は私の電話があるまで、情報もなく、とにかくじっとして余震に耐える以外なかったようです。
私の会社では、交通事情や安全性から原則会社待機となりました。
JRで帰宅を考えましたが、駅では運休を決めた後シャッターまで下ろしていて、始発以降も運転再開の目処が立っていませんでした。
結局、翌朝は都営線やメトロ、私鉄などを乗り継いで、通常1時間半のところ、4時間かけて自宅に帰り着きました。
今回、情報弱者になってしまう環境下の人と、情報を早く手に入れられる状況下の人で、
行動の判断基準に大きな影響を与えることを、改めて身をもって感じました。
会社で待機中、私はインターネット環境に恵まれていたため、Ustreamで再配信されていたテレビ局の映像や、ネットで配信されている情報をスマートフォンなどで早く知ることができました。そのため翌朝の行動計画を練ることができました。
一方、同じく東京の会社で待機し、同じ横浜に住む友人は、重要度の高い交通機関の運行情報をほとんど知りませんでした。
友人との情報交換では、携帯キャリアによって通信規制状況が違い、メールの遅延が発生していたことも分かりました。
Twitterで出回っていた、帰宅難民の方々のための情報も、せっかく大切な情報なのに、知らずに行き場に困っていた人は大勢います。
私の母は、携帯電話で電話とメールは使えますが、携帯電話からインターネットで情報収集することはできません。
誰かに情報を伝えたくても、物理的に伝わらないことがある。
人の行動特性や行動範囲、端末・メディアの利用の仕方は人の数だけあり、コンタクトポイントやフローは異なりますが、災害時・緊急時はそれがさらに拡大する。
当たり前のことなのですが、災害時・緊急時に直面すると、この物理的な差異が人間の心理面にも大きく影響することを肌で感じた体験でした。
皆様ご無事でしたでしょうか?
地震が発生した際、オフィスにいました。高層ビルの25階のため、かなりの揺れ
を体感しました。館内のアナウンスで「このビルは地震に対し安全に設計されているので安心です。。」と言われても、生きた心地はしませんでした。机につかまっていないと椅子が横滑りするほど傾斜し、窓から外を見ると隣の日テレビルがグニャグニャに波打っていました。自分の居るビルもあのようになっているかと思うと恐怖感がこみ上げてきました。見下ろすと「ゆりかもめ」から乗客が線路のうえを退避している光景も飛び込んできました。
その日は、自分ひとりであれば、会社に待機したのですが、娘が部活動で学校へ行き
帰れない状況だと分かったため、汐留から青山まで徒歩で向かいました。道路は当然のことながら、歩道も帰宅難民であふれ返っており、通常よりかなり時間がかかりました。2時間強で娘をピックアップでき、そこから、また、2時間かけ自宅へ歩いて
帰りました。246号を駒沢大学まで歩き駒沢公園を経由し帰りましたが、246号は車も人もあふれかえっており、その流が延々と続いており、異様な光景でした。
あと、今回の震源地から、仙台の伊澤治平氏の安否が気になり連絡をとっておりましたが、ようやく、無事との連絡をもらいホットとしました。本人は離れた場所にいた
ため、自宅に戻れない状況のようですが、家族、従業員の皆さんの無事が確認されたとのことです。酒にはかなり被害がでたようですが、無事で何よりです。
被災された皆さまには謹んでお見舞い申し上げます。
都内から2.5時間程、五反田のホテルに徒歩で移動したときの感想です。
男、40代半ばで、普段運動靴で普段4,5時間徒歩でウロウロしても特に問題ない者です。 神戸震災でも歩きましたが・・・。
今回は短い時間にも関わらず、それなりに疲れました。 ご参考までに
・一時期、小雨が降ったので歩くのをやめようかとも思ったが、JR線はルートが長く復旧に
時間がかかりそうなので小雨の中歩き始める。 (直ぐ止みました!)
・Google Mapのルート情報 “徒歩で行く”の時間は普段歩くのであれば結構正確でしが、
道が混んでくると3~5割増しの時間を要する
・人が多いと自分のペースでは歩けない、なかなか前にも行けない。
・携帯電話は通じず
・地震直後から、閉店してしまった店舗が目立つ、簡単なパンやおにぎりは早めの確保が
やはりお勧め、食べれるなら早めに。 (腹8分目)
・携帯をじっと眺めながら歩いている人が多い
・WEBの情報と現地の情報はやはり差異がある。が、それ以外に情報は取り難い
・歩いているうちに、公衆電話への行列が目立ってくる
・途中の公衆トイレも行列が目立ってくる、行けるなら早めに
・歩いている人の会話を聞いていると”5km以内の人は帰宅の指示が出ている”との話が
聞こえてくる
・私は、履きなれていない?皮靴を履いていたら約1時間で足裏に水ぶくれができ、歩き方
がぎこちなくなってしまう。歩く姿勢が崩れる。
・それにより、太もも、腰にも多少疲労感がでる。
だらだら歩くのではなくキチンと歩けば良かったと反省
・結構、足首に疲労が溜まる (早めのテーピングが良いかも)
・最初は、10分/kmのペースで歩けましたが、18分/kmにペースダウン
・多くの人が歩いている歩道では、道の端を歩くことも多く結構起伏があり、 徐々に足への
負担が多くなる
・同じ方向に帰る人と一緒に移動する方がかなり気が楽のようだ
・プリントアウトした地図を持つ人多数、道を尋ねる人も結構いる
・できるだけ歩く人の流れと同じ方向に歩く、いちいち避けたり気にしたりすると負担かも
・途中で車道が流れていたのでバスを5分程待つが、結局、バスに抜かれることはなかった
ようだ。
・横に走っていた高速バスとほぼ一緒のペースで移動
・タクシーは拾えない、拾っても動かない
・多くの人が歩いていると、キャスター付きバック、ベビーカーでの移動は数倍時間がかかり
そう。 (道の起伏も妨げ)
・途中の公園で「どうしよう・・・」状態の人も多数
・ビジネスホテルは満員
・疲れてか、一向に進めないか判らないが、時たまイライラした人がぶつかりそうに歩いてくる
(サラッとかわす)
・仮に7,8Km以上歩かれるようであれば、運動靴を買う方が良いと思った。
※新しい靴での靴ずれもあるかもしれませんが・・・。
・地震後の手配は早くすることに越したことはないようです。
家に帰って下記リンクを見ました。
http://oshiete.goo.ne.jp/liferecipe/docs/2692/
都内も早く元の状態に戻れば良いですね。
皆さま、いろいろお気をつけ下さい。
地震発生から4日目、ようやく体験談を書くまでに気持ちが整いました。
地震発生時、私は世田谷通りを自転車で走っていました。
ちょうど世田谷駅あたりで、グラっと大きな揺れを感じ、
いったん止まるとみるみる間に電柱がしなるように
動き、建物が揺れだしました。
呆然としながらも、低層で古い建物が立ち並ぶ場所なので
建物の下に入るよりも、車が止まった状態の車道のほうが
まだしも危険が少ないかと咄嗟に判断し、自転車を放置して
車道の真ん中にしゃがみこみました。
頭が真っ白になるような恐怖を味わいながら周囲を見るうちに、
揺れが止まったのでひとまず、自転車に戻りました。
中学生の子ども達は学校にいるので、とりあえず連絡は
できないと考え、まず実家の両親にその場から電話。
手が震えて、タッチパネルをうまく押せずに自分に落ち着け!
と言い聞かせながらの操作、しかし電話はつながりません。
仕方ないので、取り急ぎ帰途につきましたが
歩道に瓦や、建物のタイル、割れたガラスが散乱していたので
車道にいてよかったと、あせる気持ちと裏腹に状況を見ていました。
幸いにも家は、倒れたもののひとつもなく、地震の痕跡はまったく
ありませんでした。ほっとするうちに、娘から災害伝言板のメール
が着信、無事な様子でひと安心、息子も無事帰宅しました。
が、この日は電車が動かず京王線沿線の中学に通う娘は
学校泊、所在はわかっているのに帰ってこない娘を思い
一睡もできず一夜を過ごしました。
翌朝に娘は無事帰宅、何度となくメールのやりとりすることが
非常に大きな安心となり、いつもは娘のメールの使いすぎを注意する
私が、今回は本当にメールに助けられた感です。
そして、被災地の報道を見るにつけ、胸が痛んでやみませんが
今私にできることは金銭的援助なので、
国境なき医師団に、今回の地震援助のための寄付をしました。
私事ですが、10年間ほど「国境なき医師団」の1日50円募金を
続けています。1月1500円が、クレジットカード決済で
自動的に引き落とされるというもの。寄付をするという感覚もなく
ランチ代程度の金額が引き落とされる気楽さ、年度末には
税金の控除の対象にもなりますし、おすすめです。
ご興味あるかたはどうぞ!
国境なき医師団
↓↓
http://www.msf.or.jp/
最後になりますが、今回の地震で亡くなられた方々に
深い追悼の意を捧げるとともに、被災された方々が、
少しでも早く安全安心な生活に戻ることができることを
心から願っております。
2011年3 月 11 日午後 2 時 46 分、私は品川のとあるビルの12階で授業をしていました。
椅子に座った状態で話していた際に、ぎしぎしと教室を仕切るパーティションが音を上げました。
この日の2日前の水曜日の日中、同じようにパーティションがぎしぎしと音をたてました。
とても恐かったのですが、その時同じ教室にいた受講者の方(阪神の地震の被災者)が「これは大丈夫!」と安心させてくれました。確かにすぐ収まりました。
が、2日後のあの地震の際には、「まただ。」と軽く構えていた私に、彼女が「これはまずいです!」と叫んだのです。
「ホント~?」と思ったものの、まずは教室のドアを開け机の下にみんなで潜りました。
本当でした。。ひどい揺れがはじまりました。
机の上のペットボトルの水がゆらゆら揺れ、壁の掛時計も踊り、このままこのビルが倒壊したら。。。という恐怖と戦いながら1分強机の下に隠れていました。
程なくビルの防災センターより「地震発生、身の安全確保を!」とのアナウンス、さらに1~2分後、「港区は震度5強、このビルは安全なのでビル内に留まるように、エレベータは使用不可能、ビル内より火災無し」とのアナウンス、「震度5強なんて生まれて初めて」と思いながら、火災無しという情報に少し安心。
その後の度重なる余震に怯えながらも、都度都度アナウンスが入り、「ビル内は安全!」と連呼してくれたおかげで、以前より「このオーバルな形のビル大丈夫?」と思っていた私の不安を取り除いてくれました。
自分が少し落ち着くと気になるのが家族です。すぐさま携帯を握りましたが、「お待ちください」の赤い表示。。。これは基本的には翌日の朝5時位まで続きました。
幸い、停電もなくネット環境は被害が無かったようで、まずは近い家族にメールを送信しました。すぐに返信が来て、そこから一部の関係家族の無事もわかりました。
でも、自宅にいるはずの高齢の祖母と母には全く連絡がとれず、非常に心配していたところ、ボカっと空いた電話線の隙間があったかのように15時半のまだ余震もおさまらない頃、私の携帯から母の携帯に繋がり、無事を確認。
まだその時点では、夕方に予定されていたイベントに「遅れず行けるかなぁ~」なんて考えていました。
その後継続する余震。17時半頃、また「電話線の隙間」から家族からの無事を告げる電話を受信。
19時に、ネットやビル内アナウンスより「JRは終日運行しない」ことを知り、山手線で帰宅する予定だった私はビルに宿泊を決め、引き続き一部の家族とネットでの交信を続けました。Facebookの威力も知りました。
少しずつ明らかになる震源地近くの大変な状況を、Ustreamで配信されるNHKニュースで確認しながら、帰宅困難者となった私は、頻繁に襲ってくる余震にビクビクしながらビルに一泊し、翌朝帰宅しました。
家に辿り着いたのは、7時頃だったと思います。
その後、会社が自宅勤務を決めたこともあり月・火と自宅に居るため、通勤の喧騒を実感していないのですが、いろいろなことがめまぐるしくおき、落ち着かない日々を過ごしています。
被災地のみなさまが、一日もはやく平穏な暮らしに戻ることが出来るよう切にお祈りいたします。
私は病院で勤務をしている理学療法士です。
あの日も通常通り4階建ての2階にあるリハビリ室で患者さんに
リハビリを提供していました。
午後1人目の患者さんを終え、ベッドから離れて数歩歩いた瞬間、
ある患者さんが「あっ、地震、揺れてる」と。
私は鈍感なせいか、よくわからず天井にぶら下がっている非常灯の紐を見ました。
ほんの少しだけ揺れていましたが、まだ地震だとはわかっておらず、
すぐにしゃがみ込んでみました。直後、私でもわかるくらい揺れが始まって
いました。いつもの小さい地震だろうと思い、「ああ、ちょっと揺れてますね」
なんて呑気なことを言っていたら、リハビリ室のドアが勝手に閉まり、
ここでも「自動ドアみたい」なんて、私はまたまた呑気なことを言っていました。
次の瞬間、「キャー」という声があちらこちらから同時に聞こえるようになり、
さすがの私も非常事態だと察しました。
すぐにリハ室外の廊下に出て、立っている人がいないか確認しました。
・・・っとこうしている間も”余震”と思ったら、静岡県東部で震度6強の地震…
一体どうなっているのか?富士山の噴火??
話を戻します。
幸い廊下には車椅子の患者さんが1名いるだけで、立っている患者さんは
いませんでした。
その車椅子の患者さんはお一人では全く動けない患者さんだったため、すぐに
その患者さんの車椅子が動かないように体全体で押さえました。
それから15~20秒程度で揺れ自体はおさまりました。
その後、停電が始まり、病院なので(?)非常灯に切り替わりました。
停電が長期に及ぶことを察し、外来診療中止のアナウンスが。
しばらくして入院患者さんを1階へ移動させるよう指示がありました。
指示にやや疑問を感じながらも、スタッフ全員でリハビリ室にいる患者さんと
3階病棟にいる患者さんを速やかに1階へ誘導し始めました。
もちろんエレベーターは使えません。車椅子の患者さんはスタッフ3~4人で
車椅子ゴト持ち上げて1階へ。
避難経路のため、玄関の自動ドアが開けられており、非常に寒い状況に…。
30分程度で落ち着いてきたため、また病棟へ移動させるように指示があり、
スタッフ全員、力を合わせて全患者さんを病棟へ。
患者さんは文句ひとつ言わない。それどころか、患者さんからは
素早い対応についてお褒めの言葉をたくさん頂きました。
そうこうしている内に男性スタッフは泊まって入院患者さんの
お世話をするように言われました。このことが決定して
間もなく、栄養科の方から「停電でも食事の提供はできます。
入院患者さんはもちろん、泊まるスタッフ分も全員出します」と。
なんと心強い!
早速、病棟の患者さんに食事を提供し、私も食事をおいしく頂くことが
できました。
さて、「病院は停電にも対応できてて安心安心」なんて思っていたら、
なんと1時間程度で1つ、また1つ…と、非常灯も消え始めました。
気がつけば全ての非常灯が消え、病院全体が真っ暗に。
入院患者さんたちの中には震えている方も…しかし、全般的には落ち着いていて、
患者さん同士声を掛け合って状況を比較的冷静に判断しているように
感じました。
東京電力から「電気の復旧の目処は立たないと言われた」なんて情報も
入ってきて、半ばあきらめていました。
21時頃だったでしょうか、長く暗い一日が始まると思っていた矢先、
希望の灯り(光)が…!
やはり、光は人々を元気にします。
患者さんたちも、スタッフも、もちろん私も笑顔。
患者さん同士の声かけ、スタッフの迅速な対応に歓心を得、
希望の光に照らされ、久しぶりに生きている実感を得ることができました。
今、こうしている間も助けを求めているがたくさんいらっしゃる
と思います。
どうか希望を捨てずに、近くに誰かいれば声を掛け合って、
光を探してください。
無事を心よりお祈り申し上げます。
地下鉄半蔵門線にて青山一丁目から表参道に向かう途中「非常停止します!」の社内アナウンスと共に電車が急停止。続いて「大きな地震が来ます。」のアナウンス。その直後に大きな揺れが発生した。長瀞渓谷での渓流下りを髣髴とさせる揺れが暫く続いた後、社内に静寂が訪れた。程なく、当分電車が運行できない旨アナウンスがあった。約10分後、電車は徐行運転を始め表参道駅に到着。
電車を降りたが、構内放送で地下鉄設備は世界最強なので、地下鉄構内にいれば安心。外に出ない様アナウンスがあった。
最初の揺れ以上に大きな余震はないので安心する様にとのアナウンスの直後に、最初の揺れ同様の大きな地震が発生。
構内放送で繰り返し「地下鉄構内は安全。」とのアナウンスあり。
手持ちのスマートフォンで情報収集を試みるが、アクセスできない。WiMaxは、そもそも圏外。電話も繋がらない。1時間程、地下鉄構内に留まったが、電車運行再開の目途が立たないので、客先訪問を断念し、徒歩にて汐留の事務所に戻る事に決め地上に出た。
青山墓地を抜けて、乃木坂、虎ノ門を徒歩にて進みながら辺りを見渡すとあちこちでビルのガラスが割れているのを確認。路上には、ヘルメットを被り、非常持ち出し袋を背負うビジネスパースンを多数目撃。
WiMaxが圏内になったので、スマートフォンでUstreamの幾つかのプログラムにアクセスし情報収集実施。
東北地方で大規模な津波が発生していることを確認。報道の様子から甚大な被害が発生することが容易に想像された。
地下鉄構内に1時間近く待機していた事に衝撃を覚えた。地震には強い地下鉄も津波や洪水には脆いのだ。もし、これが東京直下型の地震で同様の津波が発生していたら、小生は間違えなく構内で溺死していた事であろう。
無事自社事務所にたどり着き、帰宅難民となった小職は、社内にて非常食にありつくことが出来、暖かい事務所で一晩を過ごすことが出来た。
今回の災害での教訓は、地震そのものも恐ろしいが、津波、火災、原発事故等の
事後に発生する事象も恐ろしいという事である。
現在、災害復旧作業に従事されている、自治体、警察、消防、自衛隊、米軍そして東京電力ほかの皆様のご無事とご健闘、そして一日も早い収束を祈るばかりである。
小学4年生です。
吹奏楽団で音楽室で卒業式の練習中地震がおきました。
小さい地震だと思ってそんなにびっくりはしませんでした。
でも、どんどん横揺れが大きくなって、いすの下に頭をかくしました。こわくて
悲鳴をあげていている子やベーバスに頭をぶつけて泣いている子も居ました。
そのあと、教頭先生から放送がはいって運動場へ集合。
吹奏楽の人と卒業式の練習をしていたひと以外はみんな午前授業で帰っていたので
にんずうはすくなかったです。
電車が動いていないので、
緊急引き取りで教室で待っていましょう。と先生に言われて、
待っていたけれど、地震の影響でお母さんになかなか連絡がいかず、
6時になってしまいました。
学校で非常食のかんずめや、先生が買ってきてくれたパンなどを食べました。
ようやく8時半ごろお母さんが車で迎えに来てくれてたけれど
元町・中華街なので、道路がとてもこんでいました。
一時間経っても、全く進まず。
わたしはとても疲れていてねました。
お母さんによれば、車に乗ってる人はほとんどうとうとしていたので、
いつもなら前の車と少しでもはなれていたらすぐクラクションを
ならされるのに、その日は数十メートルはなれていてもならされなかったそうです。
結局、ついたのは12日午前3時頃。
テレビをつけたら、東北の方でとても大きい被害を受けていてびっくりしました。
はやく、普通の日本にもどってほしいです。
----O-O----
事務所で仕事中に大きな揺れを感じたので、壁伝いにガスの口火を消しに行き、そのまま、スリッパのまま、外に出ました。水道管が破裂をしたのかと思うほどの砂交じりの水が上がり、地面が大きく波打っている様を生まれて初めて目の当たりにしました。液状化現象はその後の揺れの時にも違うところで起こり、アスファルトが一部盛り上がり、そこから滝のようにあふれです砂と水で、側溝は砂で埋まっていきました。三度外に飛び出しましたが経験のない地震でした。仕事は4時ごろ切り上げ、自宅に向かいましたが高速道路、京葉臨海工場地帯脇も不通と聞いていたので、山側の道に行きました。そこから、コスモ石油の爆発を左手に見たときは言葉がありませんでした。ぐるぐると盛り上がる火の塊が黒煙を噴き上げながら大きくなり、後から爆発音が響きました。いつもなら40分あれば着く自宅には4時間かかり、東京にいるほかの家族は3人とも足止め、多くの方同様に翌日帰宅しました。
人間ドックの再検査のため病院の待合室に居ました。大きなTVが2台設置されており、何気なくTVを観ていた所、「宮城沖で地震がありました」の速報があり、それから数分後に大きな揺れが始まりました。3Fでしたが、かなり大きく揺れたために待合室はかなりパニック状態でした。ある程度揺れが収まったところで、何も無かったかのように医師から診察がありました。 診察後早々に病院を出たところで、更に大きな余震に遭遇。近隣のビルから非難してきた大勢の人達も、大きく揺れるビルから遠ざかるために、走り回っていました。自宅・実家に電話するもなかなか繋がらないので、1本で帰れるJRの最寄駅を目指して歩き始めました。
途中、家族に連絡も取れ、一安心したので喫茶店で一休みした後に、近くの知人の会社に非難させていただき、知人の車に便乗し帰路に。帰宅途中の河川で逆流を見ましたが、今思えば東京湾での津波だったと思います。自宅近隣の海浜地区では、液状化があちこちで発生しており道路も酷い状態の箇所が多々あり夜明け前の暗い中不気味な感じがしたのを記憶しています。
大渋滞の為、結局6時間かかりましたが、12日早朝に帰宅出来ました。
会社支給のiPhoneを4に機種変更したばかりでバッテリーが持ってくれて大変助かりました。Andoridだったら、もっと心強かったかも。。
緊急地震速報 仙台の事務所で仕事をしていた私
縦の微振動がだんだん強い揺れに・・・そして強烈な横揺れそして停電。
携帯は不通、このときの情報源は携帯ラジオと携帯電話のワンセグのみ。
停電が続くかもしれないので携帯は1台のみ使用し社員で情報を共有
16時ころ会社を車で出るが渋滞、通常1時間程度で自宅までいけるが4時間半かかる。
ヒッチハイクをする人を見かけなかったが震災時の移動手段としては有効だと
思いながら運転していた。
自宅と連絡をとり水道・ガス・電気を確認したが水道のみ使えるとのこと。
断水を想定し汲みおきを指示する(翌日からしばらく断水しました)
停電・断水等で困ったのは食事(熱源)と夜間のトイレ、これらは七輪・炭・ロウソク・懐中電灯などで対応しました(暖房は買い置きの灯油と石油ストーブで対応)
給水車で配給される水は数リッターなのであきらめて湧水を汲んで使用。
このときの情報源はラジオ、車で充電したワンセグ(車は後々ガソリン不足で泣く)
そしてまず電気が復旧そして水道が復旧していくのですが結構時間がかかったと思います。
自宅避難の場合は食糧・燃料が支給されませんのでずっと自前で調達していました。
現在はガソリンが入手できずに困っています・・・国や自治体で配給制とかできないんですかね~と思っています。田舎は車が動かないと何もできないんです。
「大震災」
(1) 3月11日
平成23年の3月11日、その時私は東京の日本橋、隅田川のたもとの5階建てビルの1階に居た。隅田川の防波堤まで歩いても数十秒の距離、「清洲橋」も同じく1,2分ほどの位置と、川岸に近い場所にあった。周囲は10階建てほどのマンションが林立していた。
午後2時47分、机の上に置いていたauの携帯電話から突然めったに聞かない地震警報の妙な音が鳴りだした。『おっ、地震だ。大きいみたいだ』室内に居たほかの二人に声を掛けると、まもなく足元から小刻みな揺れが響いてきた。やがてミシミシと音を立て、ビルが横揺れを始める迄はほんの数秒の間だった。微妙なこの数秒前の警告、ゆとりが心の準備に役立った。足元から突き上げる振動に、出入り口近くの机に座っていた私はとっさに表へのドアを開け『危ないぞ。かなり大きい』言うと同時に建物の外に出ていた。室内に居たほかの社員は地震を他人事と思ってか、お互いに顔を見合わせ室内で腰をおろしたままだった。
この地区は日本橋の中でもマンションが集中する住宅街で、一般の車の通行が少なく、毎日午後になるとマンション住人向けの出張販売のトラックが停まっている地区であった。東京は便利だというが、都心の真ん中の商業地のマンション街にあっては買い物に不自由する「特区」である。まるでひと昔前の田舎の出張販売と同じでトラックで生鮮食料を路上に拡げ販売する光景は一種異様な光景であった。
その集まっていた住民はほとんどが年配の主婦たちであったが、突然の大きな揺れにトラックに掴まり、あるいは路上にしゃがみこみパニックに陥っていた。車は左右に揺れ、足元から沸き起こる地鳴りに顔を引きつらせ周囲を見上げていた。路上に出た私も窓ガラスが周囲のビルから落下する危険を感じ、建物から離れ、道路上の真ん中に直撃を避けて佇んだ。マンションの上下左右に揺れる振動音、異常を感知し建物から鳴り響く警報音、そして振り返ると「箱崎インターチェンジ」の首都高道路高架下からは「ダーンダン、ダーンダン」とたたき付ける轟音がリズムをとって響いていた。高速道路も落ちるのではないかと思うほどの轟音だ。地震が「揺れ」だけでなく激しい「騒音」になったことを私は経験したことが無かった。激しい揺れは2分以上も続き、直感的にこれは大変な事態になったと思った。
いったん揺れが収まり、建物に戻るとすぐにテレビをつけた。事務室のあちこちのロッカーの扉は開き、引き出しは飛び出し、足元は書類が散乱していたがパソコンだけは不思議に一台も落ちていなかった。テレビ画面もこの大地震にパニックになっていた。「津波警報」が出てその数字を見て一瞬わが目を疑った。数メートルではなく10メートル以上の津波の高さを警告していた。聞くこと見ること全てに地に足が着かない感覚だった。津波の数字といい揺れや轟音といい今までの地震とは異質であった。来るぞ、来るぞといっていた関東大地震が今やってきたのだと思った。しかし、テレビでは震源地が東北、宮城県の沖を示していた。東京でこの揺れなら震源地近くはどんな様相なのか。未曾有であり未経験の災害が現実に起こっている。ただ事ではない、今までに味わったことの無い激震だ。興奮している自分が居た。
数分して余震が再び音を立てた。路上の買い物客たちはマンションに戻るのをためらい、エレベーターも停まってか路上に佇んでいる人が多かった。地面に揺さぶられるまま、そこここから黄色い声高な悲鳴や喚き声が行き交っていた。誰が統率するでもない弱者の集合であり、烏合の衆とはこんなことを言うのかと思った。
しばらくしてテレビ画面では速報で、津波がまさに街を飲みこむ画像を流し始めていた。ヘリコプターの映像らしく俯瞰から陸と、陸を押しつぶしていく波の壁、つまり津波の現実の模様を映し出していた。そしてその光景は数分後には関東にも及ぶことを伝えていた。『津波警報が出ています!』路上に集まっている人たちにテレビの情報を私は大きな声で知らせた。『津波は千葉で高さ4~5mの予想 ! 川に来た場合、もっと高くなる可能性があります。隅田川から離れて避難したほうがいいですよ!』知らない人たちに大きな声を掛けるには少し勇気が要る。しかし黙っている時ではない。地元スポーツ少年団で子供たちに大きな声で指導している経験が思わずここで出た。その時、一人の主婦が私に近づいてこう言った。「千葉の海岸まででしょ?津波が来るのは?」きょとんとした表情である。千葉まで津波は来ても東京には津波は来ないと思っているらしい。『千葉も東京もすぐ隣です。東京に津波が来たらここもひとたまりも無いですよ、とにかく高い場所へ!間もなく来ます』平和ボケが進むと無知も同じだった。
老婆がほかの主婦と二人たたずんでいたので『マンションなら高いところへ、出来れば4階以上に』と言って事務所に戻ろうとすると『エレベーターが停まって戻れないの、どうしましょう』と困りきった様子。高齢で自分の足で階段を登る自信がないという。付近にある「箱崎ターミナル」は成田空港への高速バスが出る発着場でしっかりした建物で、歩いて数分のところにあり、そこには上の階へのエスカレーターもある。ここより数メートル高台の場所で、3階建ての公共の建物で安全と思われた。ワンフロアーの高さは約5メートル。数m程度の津波なら2階以上に居れば難を逃れられる。3階に行けば高架の首都高速にもつながっている。二人とも震えている様子で動こうとしない。見るに見かねて私も加わって3人で一緒に隅田川を背にして歩いて行った。『6階にいたら冷蔵庫が倒れ来て部屋がめちゃくちゃ。一人暮らしで、もうどうすることも出来ない』八十歳過ぎだという老婆の部屋は足の踏み場も無いという。本当に津波が来るのでしょうか?と言うが私も生まれてからこの方こんな地震は経験が無い。ただ実際に津波はこの国の東北の太平洋沿岸から襲い始めている。画像を見ない人には信じられない事態だが、現実にテレビではそれを映し出している 。空騒ぎに終わるのを祈るだけだ。『津波が来なかったら、大げさな話だったと後で笑えばいいですから』というと二人の婦人はうなずきあっていた。無駄でよい、大災難を想定して大袈裟過ぎるくらいの対処をし、そして心配が空振りして杞憂に終わればそれで結構なのだ。危機管理の根本は安心の置き所でありその深さだ。深く対処し、浅く終わらせる余裕にある。
箱崎ターミナルに着いてみるとガードマンが入り口にいて人々の出入りを封鎖していた。制限ではなく封鎖である。建物の中には地下鉄半蔵門線「水天宮前」駅があり、今の地震で安全点検中という。地下鉄も止りホームに人が溢れるのをおそれ、駅、建物への入場を禁止中という。目の前に日本橋有馬小学校があり、避難所として人々が集まっているという。目と鼻の先なので二人の婦人達にそこに避難するように指で示し、別れた。地下鉄から高速道路からあらゆる交通網が点検で長時間停止するだろう。何処がどうなっているか被害情況がまとまるにはかなりの時間がかかるだろう。夕暮れが近いが今日は東京から脱出出来ないかもしれない。目に付いたコンビニストアーでとりあえずパンや飲み物を社員の人数分、買い求めた。孤立する予感があった。覚悟せねばなるまい。妙な度胸が腹に据わった。これが私の地震の直後の状況であった。
(2) 夕方
携帯電話も普通電話もまったく通じなくなっていた。安否を気遣い情報を求め合う人達の電話で回線がパニックに陥っていた。携帯電話も同じだが、唯一の通信手段は携帯電話のメールだと判断し、妻と、松戸市で寮生活をしている一人娘の二人には「俺無事、異常なし、そちら情報よこせ」と短くこちらの無事を伝えた。返信はすぐに返ってこないだろうが混雑が過ぎた頃には届くはずだ。連絡の無いのは要らぬ不安を冗長するばかり、気がついたほうでまずは無事報告をし相手を安心させるのが緊急事態の基本。
テレビの画面ではリアルタイムで津波が街に襲い掛かる画面を放送していた。海からの黒い濁流の波が動く壁となって東北の市街地に押し寄せていた。何故こんな画面が映っているのか。過去のどこかの被災地のフィルムを流しているのかと想像した。が、画面の片隅に「ライブ中継」とあり現実に今の今に起こっている事態だと説明していた。アナウンサーも言葉が途切れがちで、ただただこれは現実の事態だと画面に言葉を挟んでいた。
田んぼが、道路が、家々が一列の壁となって押し寄せる波に文字どおりに飲まれて流され押しつぶされ水面下に消されていく。走っている車もトラックも波に捕まると同時に浮き上がり、玩具のように波に翻弄され家々の瓦礫と一緒になって漂流を始める。船も車も、屋根を付けたままの家も黒々とした波と一緒に移動していく惨状が現実に起こっている。ビルも3階建ての建物の最上階がやっと見えるくらい、10メートル前後の津波とはこれか、ただただ驚くばかり。
妻と母の住む潮来市は鹿島灘の海岸線からは直線距離にして5km足らず。途中に小高い10mくらいの高さの山があるから大丈夫だろうが川を伝って津波が来る場合も考えられる。住んでいる住宅街は川面からの高さ2メートルくらいなので最悪、浸水の危険がある。娘も松戸に居り大学校舎にいれば高い建物に避難できているだろうが、今、どこでどうしているかは判らない。同じようにこのニュースを見てくれていれば良いが、停電になっているかもしれない。知らなければ被害に遭う危険性がある。まだ先ほどのメールの返信も無かったが追加で送信した。「余震、津波注意、水確保、命一番、ものにこだわるな」津波が広範囲に押し寄せているのがわかると「高台にすぐ逃げろ!俺は無事」次々送信した。津波が杞憂に終わればそれで結構、もし妻や娘の住んでいるとこまで津波が現実に押し寄せれば取り返しが付かない。居ても立ってもいられないとはこの事で、戻りたくとも地下鉄は止っており、高速道路も空港も電車も全てが不通状態。直線で100キロメートルでは歩いて帰るのも無理である。安全を祈るばかりだった。4時近くに会社から本日の業務は終了し、早めに各自で帰宅を促す電話が入った。
動いている電車は無かった。泊まるにも、どのホテルもこの一時間余りで急遽満室になったという情報が来た。私には幸運にもこの東京に親戚の叔父さんが住んで居た。地下鉄で2つ目程の距離で、会社から歩いても1時間とかからない場所にある。昨年、その叔父の連れ合いの1周忌があり、今度東京に通うようになったというと、何かあれば泊まりに来いと声を掛けて貰っていた。戦後、一人で上京し材木屋を始め、苦労して3階建てのビルを建て1階を貸事務所、2階に息子夫婦を住ませ3階に一人で住んでいた。幸い電話が通じ、年の差のあまりない従弟が電話に出たので状況を話し宿泊を頼むと歓迎してくれた。普段の付き合いがつくづく大切だと感じたものだった。叔父は亡くなった親父の弟にあたり大学受験の時も何度か泊めて貰い、従姉弟たちとも歳が近く、冠婚葬祭の都度顔を逢わす機会があった。
背広を脱いで、ロッカーに入れておいた作業服上下に着替え、コートを着ると会社から歩いて数分の清洲橋を渡った。この数日間は、背広で過ごす環境では無くなるだろう。事務所から歩いて行ったことは無かったが以前から地図を見て、叔父の家の見当は付いていた。「東京都美術館」が目印でそこから数分の場所に叔父の家はあった。途中、コンビニで1食分ほどの飲み物、パンやおにぎりを余分に買った。今日はともかく明日以後の食糧の不安があった。同じ危惧を抱く人も多いのだろう、店の商品棚は空になりかけていた。
暗くなってもしばらく歩き、ああもう近くまで来ているな、と叔父の家の見当も付いた地点で食事をした。小さなスナックで、中ジョッキを頼んで喉を潤すと簡単な食事をした。テレビでは被災の模様が相変わらず映し出されていた。被害は東北を中心に関東まで広がっているようだった。茨城に住む人間として津波が関東の一部までに留まったのには安堵したがそれでも死者、行方不明が出ている様子だった。東北の被害は、悲惨で、どこまで死者や行方不明が拡大するのか予想も付かなかった。悲惨な場面ばかりがどのチャンネルからも流れていた。待ち合わせの店になっているのか、サラリーマンがこの狭い店に集まり飲み始めていた。皆、帰宅難民となってしまい、とりあえずここで夜を過ごし深夜までに電車が動き出せばと、ここで時間を潰すようだった。街をうごめく人は多いが駅に帰宅を急ぐ人の居ない風景がこの夜の東京の特徴だった。
叔父の家に着くと食事を済ませていたので、風呂に入りじっくりと叔父や従弟とテレビに見入った。相変わらず家族への電話は通じなかった。回線も「混雑しております、今しばらくしてからお掛け直し下さい」のメッセージが延々と続き、繋がらなかった。そのころになってやっとメールが返ってきた。何時間経ったのか忘れた頃になって無事の様子が妻から娘から相次いで入った。お互いやきもきしていたろうと思った。「皆、無事だった。お陰様で、今になってやっと連絡が取れました」叔父と従弟に報告した。力がどこかに入り込んでいたのだろうか思わず長いため息が出た。安心が気を緩ませ、叔父に付き合って酒を飲んでも回らなかった酔いがゆっくりと身体を回りだした。
その晩、何度も突き上げる余震があり目を覚ました。通勤で使っているポケットラジオからはイヤホンを通してこの地震の深刻さを繰り返し放送していた。死者や行方不明者の数が数百人の単位から数千人の数に増えていった。交通の便がどうのという情報は後回しになっていて、復旧が確定しているのは数えるほどだった。都内でも地下鉄半蔵門線は回復し東京駅まではとりあえず行けそうだった。朝になったら東京駅の高速バス乗り場に行ってみようと考えた。何度もまどろみ、何度も余震に目を覚まし、横になって過ごした。
(3) 翌日
朝のテレビは一夜明けての東北を中心にした津波の惨状を映し出していた。生まれてこのかた見たことの無い「街の跡」が映し出されていた。「全滅」という言葉がすべてを言い表す光景だった。わずかに残るビルの建物跡、それ以外は家から電柱から樹木から人が住んでいた形跡はすべて消え去っていた。それは記録フィルムに残る「原爆後の広島」の様子に似ていた。一方は人間の使った最終兵器で、一方は自然の持つ災害で。爆風と炎で焼き払われた街の「跡」と、生活を飲み込みさらっていった津波の「街の跡」、両者、同じ光景として重なりあった。違っていたのは灰の代わりに夥しい瓦礫と泥の山が街を覆っていることだった。
相変わらず電話は通じず自宅の様子が気になったが、映像を見るほどに建物が無事である確信はなかった。しかし家族の誰も彼もがメールに拠れば大丈夫な様子で、生きていればそれで「良」と思った。
命との関わりの深さで価値は違ってくる。衣食住は命に関わるものだ。一晩の空腹は我慢できるが衣類が無ければ凍えて命に関わる。衣類があっても、ずっと食べ物が無ければ衰弱する。生命の維持に必要な順で価値は序列化する。その基本になる衣食住すべてを原子爆弾や津波は奪い去る。地震による建物の被害、そんなものは生きていれば何とかなると思った。
東京駅は妙に閑散としていた。心なしかいつも歩く構内は暗く感じ、土曜のウィークエンドとはいえ昨日と比べて混雑は確実に半分以下になっていた。ほとんどの路線は電車といい地下鉄といい、私鉄も高速バスも昨日の地震で出発は未定のままになっていた。窓口には所々人だかりがあり開通のめどを質す乗客で輪になっていたが予定がつかずに「見合わせ中」を繰り返し、もとより客たちも昨日の大地震を経験していて期待をして駅員に問い詰める風も無かった。物分りのいい諦めが乗客にもあり、いつもだと殺気立って詰め寄る光景とは明らかに違う情景がそこにはあった。1時間待ったが8箇所ある発着場には一台のバスも来ず、午前中の開通を諦めて、午後再び来てみようと判断した。バス以外に列車の便も幾つか調べたがどの路線も見通しのつかない状況だった。
天気は晴れていて春、三月にしては暖かい日差しだった。皇居を散策しようと駅の構内を戻った。昨日、帰宅できないままで同じ背広なのだろう目的の無い足取りでうろつくサラリーマンが何人も見かけられた。自分も、作業衣に着替えてこそいるがそのひとりだった。
外堀通りを渡り、砂利道を二重橋までゆっくり歩いた。急ぐ必要はまったく無かった。今日復旧するのかもあやしい、いや明日もどうだろうかと半分諦めがあった。イヤホンからはラジオで各地の橋や道路が被害を受け、線路さえも津波で流されている情報が入っていた。皇居周辺は驚くほど閑散としていた。団体の観光客はまったく見えなかった。土曜の午前中なのに外人を数組、日本人の観光客さえばらばらと何人か見かけるだけで震災翌日の皇居周辺には異様な静寂があった。
二重橋では、気のせいか警護の係員も手持ち無沙汰風であった。『皇居では昨日の地震で被害はありませんでしたか?』話しかけると二重橋を指差し『いつもなら制帽なんだけど、門の屋根を見てください』といって二重橋の屋根を指さし『ほらっ、真ん中、上のほうが落ちているでしょう』確かに屋根の一部が崩れている『だから今日は怪我する危険があるので警護もヘルメット着用です』皇居の中でも何箇所か被害があったことを教えた。しばらくすると中国人らしい一団の中年グループがにぎやかにやってきて写真を撮り合っていた。それがこの日見た唯一の観光の一団であった。風も日差しも春を含んで暖かく、気持ちがよかった。しばらく当ても無く歩き、休憩所で時間を掛けてコーヒーをゆっくりと飲んだ。途中、何度か電話をしたがやはり被災地に回線はつながらなかった。『皇居散策して優雅に開通待ち中。潮来方面、高速道路、回復状況ネットで調べられたら見込み教えて』と娘にメールを入れた。駅の係員さえまったく答えられない状況を伝えた。
コーヒーを飲みながら、それにしても、と思った。それにしても、こののどかさは何なのだろう。津波で何百人、何千人という人々が行方不明になっている。たった今、孤立し助けをもとめている人も多く居るだろう。それなのに一方で、こののどかな春の日差し。平和で、閑散とした緑まばゆい皇居周辺の景色。平和そのもので、悲惨さのかけらも無い。誰が苦しみ、誰が死のうが、淡々と陽は昇り、そして何事もなく暮れていく。すべてを粛々と受け入れ、淡々と過ぎていく。この世は、すべてに対し無関心だ。青い空が、白い雲がただただ無言である。
東京はあれだけの地震があったにもかかわらず電気から水道、ライフラインが強いのには感心したものだった。ラジオからは千葉や茨城以北でほぼ全面的に停電と断水状態になっていることを伝えていた。東北にいたっては被害が更にひどい様子で、電気とか水道を話している時ではない、死人や行方不明が数え切れない状態である。それなのにここ東京は交通網以外いつもどおりで、デパートも普通に再開し地下鉄も一部だが開通している。地震被害がそれと判る建物も無い。地割れも陥没も見かけない。駅の周辺で昼食をとり、再びバス停に行ったが相変わらず様子は変わらなかった。開通を期待して並ぶ人も居なかった。午後の3時に再びやってきてその時間になっても不通なら諦めようと考えた。歩くこと以外に交通の手段は無い。喫茶店で何度か時間を過ごした。被災地以外の電話は通じるようで都内の叔父の家には連絡が取れ、夕方までに回復の見込みがつかなければもう一泊させてもらいたい旨を頼んだ。昨日以来、地元と電話が不通なのは被災地のため電源を失っているせいかと思った。都内なら連絡は可能なのだ。
午後3時になっても交通は回復せず、駅構内のユニクロで替え下着を買い求め、夕飯時の叔父の家への土産を買うと半蔵門線の地下鉄で向かった。
ひたすら歩き回ったせいでくたびれ果て作業衣の下の下着も汗ばんでいた。背広だったらこの一日でしわだらけになっていたろうと思った。三越前から地下鉄半蔵門線に乗ると車内はがらがらに空いていた。白川清澄駅で下車し、また延々と歩いた。この日だけで2万歩近く歩いた。待つことが無駄に終わっただけに疲れただけの一日に終わった。
歩き回っていたこの日、地震と津波の影響で福島県の原子力発電所が停止、冷却機能が止まり、放射線事故が発生した。電源が停止し水素爆発が生じ建物が破壊、放射能が漏れ出す事態となった。地震と津波だけで終わらず二次災害で放射能漏れが発生という前代未聞の事態、踏んだり蹴ったりとはこのことで、いや、踏んだり蹴ったり潰したりである。
地震、津波だけなら自然が相手でありその被害に不幸を嘆くしかない。が、原子力発電施設に被害が発生するとなるとその脆弱さに怒りが沸いてくる。予防対策をしっかりとしておけば未然に防げたはず。それなのに自然の脅威に対して「甘い」想定で作られてしまった、と。事実、地震と津波に抗しきれなかったのだから弁解のしようは無い。もし何とかだったら、もしこうなったら、の「たら、れば」のレベルが低いのだ。最凶最悪を、平和ボケの頭で考えるからこうなってしまった。設計者、危機意識の欠如した先生方だけで決めるからツケが回ってしまう。誰が責任を取るのか、当時の決定者たちは責任重大である。腹立たしい思いがテレビを見ながら体を駆け巡った。
地震と津波は何年かすればその爪あとは消すことが出来る。しかし放射能漏れは、ロシアのチェルノブイリでさえ数百年という言う時間と周囲200Kmへの被害を及ぼして人を住めなくしている。それ並みの被害がわが国でも予想される。狭い日本でそれだけの地域が立ち入り禁止になれば人々はどこへ追いやられるのか。遠からず日本は二流国、三流国に落ちていくだろう、そう思った。地震と津波までは自然のせいだが原発事故は人為である。余震は今までに無い頻度と強さで繰り返していた。震度4や5程度の地震が日に何回も続きauの携帯電話からの予知警報にともすれば慣れっこになるほど頻繁であった。地震と津波による死者と行方不明の数は数千人になっていた。最終的に両者合わせて直感的に3万人はいくだろうと私は従弟に話し、従弟はいろいろ理屈をつけて5千人の予想を立てた。
その日の歩き疲れをとろうと叔父の家でいつもよりゆっくり長い時間風呂に入った。叔父と食事をしながらテレビを見ても悲惨さに発する声もなくなっていた。見ているだけで、どうしようもない歯がゆさが根本にあった。どのチャンネルも類似の映像を流し、テレビからは笑いが消えていた。初回ほどの激しい揺れはさすがに無かったがその晩も余震は幾度も突き上げ、東京の街を揺らした。あまりに頻繁で、またか、と反応も鈍くなってきていた。
その晩、妻と娘にメールを送った。「お前たちのことがこんなに心配になるとは今まで考えなかった二日間でした。当分こちらにいる予感がします。空気だったことに気がついた今回の災害!頑張ろう!」
(4) 3日目
朝の寝床の中で考えた。昨日一日待っても、潮来方面への高速バスは出なかった、と。歴史的な大地震だから回復にはもっと日数がかかるのかもしれない。しかし、地元がどんな風になっているのかも判らず、妻と母を残したままここで過ごす訳にはいかない。帰らなければ。方法は無いだろうか。100Kmの距離が問題だ。道路はどこも大渋滞だという。橋が落ちたり道路に亀裂が入ったり傾いたりとまともでない様子だ。自転車で帰ろう、考えた末の結論はそこに行った。自転車なら車は通行禁止でも担いで何とか通れるだろう。去年、霞ヶ浦1周を半日ほどかけて走破した経験がある。120Km前後走ったはずで、経験から朝の9時に出れば暗くなる頃に着けるかもしれない。この近くで自転車、それもパンクに強いマウンテンバイクを買おうと考えた。食事をしながら叔父にそのことを話すと階下から従弟がやってきて、無茶するな、もう少し待てば復旧する、とのんびりした意見を言う。せっかちになっている私は一刻も早く近所で自転車を買おうと必要品をリストアップしていた、が念のためと彼に最新の情報をネットで調べてもらい、そんなこんなのやり取りしている間に開通見込みの情報が入り自転車の考えをいったんキャンセルすることにした。自転車を購入するために出発する直前だった。
叔父に白河清澄駅まで車で送ってもらい地下鉄で三越前、そして歩いて東京駅に行くと駅前の発着所には高速バスが来ていた。運転が再開したのである。いつも通勤の時に見かける顔なじみの会社員が居たので今まで話したことも無かったが「やっぱりずっと帰れなかったですか」と聞くと「二晩も会社で背広で寝ました」と苦笑いを返していた。
運転再開したのを知る人が少ないのか高速バスに乗り込む人は定員の半分に満たなかった。バスは発車すると車内アナウンスで「新木場」の周辺が地震の影響で通行止めになっていて、その間、首都高速を降りて走ること、また、道路状況に応じて途中で高速を降りる場合もあり、その場合時間がだいぶかかる可能性がある、など臨機応変に今までに無いコースを走っても目的地に着く予定を伝えていた。不平不満を言う人は誰も居なかった。
震災の余波を懸念してなのだろうが東京の街かどは一般道路、首都高速とかなり空いていた。一見したところ、建物も道路も地震の被害は見受けられなかった。バスが「新木場」から「舞浜」にかけて首都高から降りて迂回する時、液状化による土砂の噴出跡が何箇所か見られた。茶褐色の関東ローム層の地面に、海岸砂が吹き上がりそこだけが白く盛り上がって茶と白のコントラストを見せていた。バスは快調そのもの、途中で迂回路をとることも無く進んだ。バスから周囲を見ていると都心から千葉にそして茨城に近づくにつれ屋根瓦の落ちている家々が目立つようになった。ブルーシートで屋根を覆う家がポツンポツンと見えるようになっていた。利根川を越え高速道路も終わりを告げた。
バスが潮来インターに着いて高速道路を降りると、信号は消えていた。行きかう車は互いに安全を確認しあって進んでいた。震災以来三日目の停電が続き、信号が消えているのだった。ターミナルでバスから降り歩きはじめると信号ごとに注意して歩いた。運転手同士も互いに相手を確認して譲り、又は優先に従って交差しあっていた。街中の信号は消えており無謀な運転は事故につながり、散漫さは命取りになりかねた。住宅街に歩いて来て、路上にひびが入っているのが目に入りだした。路上に埋まっている鉄蓋やコンクリート製品の箇所では、大きく亀裂が入っているところが目に付いた。大谷石の塀は土台を残して路上に倒れ、見渡すと築後20年過ぎくらいの家の半数は屋根をシートで覆っていた。揺れで屋根の天辺の部分が崩れたのだった。道路といい電柱といい家といい、ぐらぐらと根元から揺すられ、あるものはひび割れ、あるものは崩れ、あるものは傾いて被災の痕跡を示していた。路上も宅地も区別無く、あちこちに白砂が液状化して噴出していた。震災後三日が経ちそれらの砂も水分が蒸発し、今では乾いて埃と混じり路上を風と一緒に舞い上がっていた。関東ローム層の土と違った細かな粒子状の軽い砂で埋立地特有のものだった。そしてこれが地震を液状化という別の被害に結びつける張本人でもあった。「妙に埃っぽい」と感じていたのはこの風に舞う細かい砂だった。街全体がいつになく埃っぽく、ざらついていた。
自宅に戻ってみると、お向かいの道路わきに立つ電柱は大きく傾いていた。駐車場や庭のコンクリート部分は何箇所かひび割れていた。しかし家自体は無事だった。地震のうねりがどの家にも押し寄せていた。それは道路、畑に関係なく公平に押し寄せ、住宅街全部を波打たせたのだった。波の頂の部分は道路を膨らませ、又は家を持ち上げ、沈んだ部分は塀をも陥没させコンクリート側溝を沈めそして家を傾かせていた。幸い我が家はその波の中間で止まったのだろう水平を保てていた。しかし、ほんの5メートル離れた隣の家は、前面が地震の波に持ち上げられ、のけぞるような微妙な傾きを示していた。
妻と、母と、無事な顔を見て互いに喜びの笑顔が浮かんだ。何もかも不自由な地で二晩も女だけで過ごしてどんなに心細かったかと思った。今日も水道と電気は停まったままであるという。下水も流せなくなっていた。オール電化にしてしまったので停電で火も使えず、鍋用のポータブルのガスコンロが唯一の調理器具であった。あるだけのペットボトルを積んで、給水所まで車で水を汲みに行き、毎日運んでいるという。この3日間、力になれなかったことを悔やむしかなかった。
死傷者は幸いにもこの地区にはなかった。震災当日の夜、住宅街の中央に新しく出来たばかりの中学校体育館は、竣工式を待たずに余震を不安がる住民の避難所となり、集まった住民の数は千人を超えたという。我が家は被害も無かったので避難生活はせず、ろうそくをつけ生活していたという。家を建てるとき、耐震性の構造を第一にして選んだだけに震度6の揺れにも無傷であった。皿が数枚食器棚から落ちて割れたのが唯一の被害で、そのため避難所にいく必要も無かった。二階の本棚から崩れ落ちた本が多数あっただろうと想像していたが一冊も落ちて無かった。用心深い性格が幸いした。震災時の転倒防止器具をいたるところに取り付けていたのが結果として無災害として現れたのだった。テレビも箪笥もわずかに動いた程度で損害はゼロであった。つくづく幸いであった。
道路はひび割れ、でこぼこになってしまい車での通行は危険で、とりあえず自転車で背中にリュックを背負い避難所に飲み物の調達に向かった。地面が沈下したのか、建物が浮き上がったのか学校も体育館も基礎が浮いてしまっていた。グランドは吹き上げた液状化の砂で広範囲がまだら模様である。昼食にカレーが配られており町内の者ですが、と言うと分けてくれた。連れてきていない家族の分もくれるのかというとその時は三人分分けてくれたが次の日行くと避難生活者だけに限定になった。しかし、どこにいってもものは買えず、商店は臨時休業がほとんどであった。まともに調理が出来ない住民にとって、食料を調達できない現実に変わりは無い。家に帰れる人は食事が出来ると限らない。むしろ避難所の混雑が嫌で、支障があっても我慢して自宅に帰っている場合が多い。飲み物とカレーを貰い、小さなダンボールに入れて戻った。食料の支給にあやかれたのはその日だけで、後にも先にもそれが唯一であった。
電気は通らず水道も停まったままで、暗い夜を原始生活のように過ごした。明かりの無い食事が何と味気ないものかをしみじみと味わった。口から入れば、出る、のは必然で、小便は便器に数回分を溜め込み、大便を出すときにまとめてバケツに汲んだ水で流すことにした。洗濯も出来ず、食器も洗えず、水を使わずに済む工夫が必要とされた。食器皿はサランラップで覆い、使用後ラップだけはずして捨てる方法を妻は知っていた。洗顔も歯磨きもコップ一杯の水で済ませるようになった。割り箸を一日通して使ってから捨てることにしていた。風呂は当分望めそうも無く、エコキュートにしたので水道と電気の両方が使えない限り、我が家での入浴は不可能だ。欠点も長所も失ってみて初めて判る。ガスの家はボンベが緊急支給され火を使えるようになっていた。ガスも併用して使えるようにしておけばと悔やんだが今更である。余震は続いた。いつまでも続く大きな余震は今回の地震が今までのような狭い地域だけのものではなく、大規模で今までとは違うスケールのものであることを教えていた。
(5)週明け
金曜日に大地震が起き、中二日たってすでに月曜であった。交通の便がまともに回復している路線は無く、東京までの出社も出来そうもないので見合わせ、地元の営業所の応援に行くことにした。幸い電気だけは通っていたが、そこもまた水道と下水が止まっていた。嵐の前の静かさで、復興以前の現状把握に終始し、資材の調達などの多忙さはまだ先であった。方針は現状把握があって初めて決まる。その把握があまりに広範囲すぎて出来ていない。今いるスタッフでメンバーは十分な様子であった。
交通網がストップし、ガソリンが不足になり始めていた。あちこちのスタンドには車が長蛇の列で並び、はみ出した車が交通の妨害になっていた。取引先の伝でガソリンを入れてくれるというスタンドがみつかった。営業所の社員と一緒に自分の車で行き、年末以来ガソリンをまだ2回しか入れていないトヨタのプリウスに10リットル入れてもらえた。途中、神栖市の市役所の数百メートル先には国道上に車が数台中央分離帯に乗り上げていた。津波で、鹿島港からあふれた海水が国道124号に押し寄せ、通行中の車を押し流した跡であった。帰り道、食事をするところはどこも無かった。外食産業は断水で一軒も開店ができない状態であった。
次の日、こんな光景が見受けられた。冷たい風を避け、運転再開の話を聞いて集まっていた乗客たちはバスの待合室でそれぞれベンチに腰掛けて待っていた。突然私の携帯電話の地震警報が鳴りだした。隣に座っていた青年はそれに気づくとポケットラジオのイヤホンを取り外し、周囲にも聞こえるようボリュームを上げ、ラジオの速報を周囲の人たちにも知らせた。直後、ひとしきり大きな余震が襲った。危険を自分だけのものでなく周囲にも知らせようとする姿勢が青年にあった。万が一の時はお互い、気をつけようという無言の気遣いであった。
また、こんな光景も見た。地震の影響で電力不足になり地下鉄へのエスカレーターは停止していた。腰の高さまであるキャリア付きの大きなスーツケース二つを両手で押していた若い女性がエスカレーターの前迄来ると、節電で停止していることを知り、そのあまりの距離に呆然と佇んでいた。スーツケースを押していた姿は、果たして荷物を女性が押しているのか、女性が荷物に引っぱられているのか判らないような感じだった。片方だけでも持ち上げて運ぶのは無理な重さに見受けられた。と、その後ろから歩いて来た男性が一言二言女に声をかけると両手にその荷物を掴み、停まっているエスカレーターをずんずんと降りて行くのだった。男は中年の大柄でもない体格だったが、その後姿は逞しく見えた。女はしきりに感謝の言葉を述べ、あわてて男の後を従いて行くのだった。出来る人が自分の出来ることを、出来ない人に代わってする、それを当然のことのように行う光景であった。
スーパー、コンビニからは食べ物や飲み物が消え、店では空になった棚が広がっていた。断水と停電で家庭での調理が出来ず、いきおい調理済み食品の買出しとなり、店側は補給が途絶えて品不足になり、シャッターを閉じる店も目立ち始めた。
道路の状況も一変した。埋め立ての造成地は、液状化の被害が住宅街の広範囲に及び、家や塀の沈下、傾きだけに留まらなかった。道路自体が波打ち、あちらこちらでアスファルトの路面はひび割れていた。特に信号箇所での隆起が激しく、今までのスピードで走っていて飛び跳ねる車が続出した。停電の続く地域も多く、道路の右側の民家には明かりが灯っているが左側は真っ暗な民家群、といった異様な光景が見られた。
こんな事態にも拘わらず、夜になると風呂に入りたくなった。贅沢な望みとは知りながらも、ほっとする寛ぎを望んだ。通勤しているとどうしても夜の帰宅になり、戻ってから妻の実家に車で風呂を貰いに行くには遅くなり時間的に迷惑をかけると判断した。一日二日は辛抱できてもさすが三日目ともなると頭が痒くなり体臭も鼻についてくる。東京の会社から自宅に戻る間に風呂に入る方法はないかと考えた。インターネットで会社から東京駅に戻る間に立ち寄れる銭湯を探し、見つけた。東京駅・丸の内側から約1キロ「鎌倉橋」信号の近くに「稲荷湯」という銭湯があり450円で利用できるとある。東京駅のこんなに近くに銭湯があるとは、と今更に驚いた。捜せば都心にもあるものだ。石鹸とタオルをビニール袋に入れ、通勤カバンに入れての通勤が始まった。災害地生活を理由に早めの帰宅を許してもらうことにして、通勤帰りに銭湯を利用することになった。薄暮前後の夕方の風呂は空いていた。昔ながらのこじんまりした銭湯で、ジェット泡の風呂もあり熱い湯で気持ちが良かった。単身赴任で近くに住み、風呂だけ毎日利用しに来る人も居た。ジョギング前に立ち寄って荷物をロッカーに預け、走った後で湯に漬かって帰る会社員も見かけた。皇居は目の前のロケーションで、根っからの住人は場所柄から少ないように思われた。
断水が続き、洗濯も出来ず毎日ワイシャツを替えるのは中断した。ジーパンや普段のTシャツを数日着るようになった。被災し復旧していない以上、普段の生活は不可能だ。近辺のコインランドリーも被災していた。数日毎に妻は車で30分ほどの実家に通った。実家は被災の翌日から水道も電気も復旧していたので洗濯機を使えたし風呂にも入れた。親戚が近いから風呂に洗濯にと利用させて貰えたが、親戚も知人も無い人は苦労をしたことだろう。
帰宅の途中、東京駅の大丸の地下食品売り場で弁当を買って帰るようになった。通勤カバンもリュックを背負いまさしく避難者としてのものに変わった。
そんな、ある昼時のことだった。昼食時に、夜は飲み屋になる食事処に立ち寄ったときの話である。震災の影響なのか月に数回の行きつけの店はいつもより空いていた。そのせいなのか、何気なく店のおカミさんは話しかけてきて挨拶代わりなのだろう震災の影響はどうですかと話しかけ、それに対して、自分の地域は今もって電気が通じず水も駄目でポータブルのガス台が唯一の調理器具だ、と話していると、なにやらガサゴソと引き出しを開け、私の座っているカウンターにガスのボンベ缶を一本置いて、よかったら使って下さいな、もう鍋の季節も終わるから、と言うのだった。余分に買い込んであり要らないと断っても、にっこり微笑んで幾らありすぎても困ることはないと言われ、ありがたく戴くことにした。たまにしか来ない客なのに、一被災者としてかけてくれた情けが身にしみた。
震災後5日目になって電気は復旧した。相変わらず水道、下水は使えなかったが電気がつくだけで心が軽くなるのを覚えた。オーバーな表現だが文明へ一歩ずつ元に戻る感じだった。灯りにともされた食卓はそれだけでありがたかった。色の失せた食卓と比べると、同じものでも味が違って感じられるのだった。