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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

この国のかたち

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安倍首相の、「バイ マイ アベノミクス」がちょっと評判のようだ。欧州経済がリーマンショックの影響で引き続き低迷し、米国経済も予算の天井が問題となり、これまで牽引車であった中国経済もシャドーバンキングなどで先行きに心配が出る中、次元の違う金融緩和策や、実施が固まった消費税増税などで、日本経済の先行きに期待が高まるのではと思わせる。

確かに、景気は「気」。実態がどうあれ、投資家が期待し資金を提供し、これを踏まえて経営者や国民が成長を信じて尽力すれば、それなりの成果が出ると思われるので、このこと自体悪いことではないと思う。だが、オリンピックの開催を含めて、当面の好環境に浮かれるのではなく、やはりしっかりとした先行きへの見通しを持って社会・経済運営を実施していく必要がある

財政構造は、GDP比最大の負債比率を抱えることは厳然とした事実だし、消費税増税の見返りに景気浮揚策を実施すれば、更に一時的には国債残高は増加する。また、政府主導で大型プロジェクトの海外での実施を推進することは、先行き一層市場経済の仕組みの混乱を招き、TPPなどとは全く逆行した状況を作り出す恐れもある

また、オリンピックのためのインフラ整備を始め、土木工事中心の経済政策が続くことは、わが国経済の構造変革には逆行するし、製造業偏重の経済政策は、わが国の現実の経済構造とも乖離した結果を引き起こす可能性がある。更に、このような成長至上主義の施策自体が、引き続き原発を始めとしたエネルギーの大量消費を助長し、エネルギー構造の変革にも逆行する可能性がある

また、相変わらずリスクを取らない、唯我独尊の産業界の経営者が大宗を占める中、このような経済政策への甘えを継続することは、ますますその経営刷新や企業努力を遅らせ、既に弱体化しているわが国産業の完全な衰退にも結び付く可能性がある。それにつけても、自分たちで思い切った変革が出来ない国家と国民だと思わざるを得ない。

一方で、集団的自衛権については、首相は本気でこれを政府解釈で容認するつもりのようだ。確かに、中国の尖閣に対する主張を始め、明らかにわが国の国土周辺に関する国際情勢も以前と比べて緊張を増しているのは事実だ。また、同時に、わが国が引き続きその軍事的安全保障を米国に依存しており、日米同盟関係が極めて重要なのも事実だ。

そして、自衛権は、国連憲章でも認められており、更に弱小国が近隣の諸国とともに、自国を守るための集団的自衛権が認められているのも確かだ。だが、わが国はそのような国連憲章の下で、従来からわが国の憲法の規定によって、集団的自衛権は行使できないという解釈を示してきた。

日本国憲法が押し付け憲法だという主張もあるが、現実にその制定から65年以上経過し、この憲法に従ってわが国がここまで進んできたのもまた現実だ。そして、その中で、憲法的な価値については、様々な学者の議論や、各種憲法訴訟に対する最高裁判所の判例の積み重ねで、徐々に一つの形が出来てきたのは明らかと言える。

例えば、選挙権一つとっても、当初は4倍、5倍の格差があってもこれを容認してきたものが、わが国の民主主義の成長を踏まえて、とうとう違憲判決が出るようにすらなってきている。そのような中、自衛隊の問題については、高度に政治的な判断という理解のもとに、これを訴訟で争うことは出来ず、これまでこの解釈は政府に委ねられてきた。

現実的にも、戦勝国である米国の要請によって実現した警察予備隊に対して、これを司法の判断で違憲とするということは、当時の状況では不可能だったと思われる。しかし、一方で政府は、これを出来る限り限定的に解釈することで、憲法理念との大幅な乖離は阻止してきた

そして、戦後の混乱から現在に至る過程で、当初は不確かであったわが国の憲法秩序が、このような政府や司法の努力によって、ほぼ確立したと言えるのではないか?とすれば、これを一政府の判断で大きく転換することは、本来憲法に違背するものなのではないか?

そして、過去において、高度に政治的だったからと言って、その後憲法秩序が固まった今、引き続き政府に解釈権があると言えるのか?ましてや、集団的自衛権が本体は弱小国の隣国への協力を念頭に置いたものとすれば、わが国の米国に対する集団的自衛権はこれと同視しうるのか

自国を防衛することの重要性はもちろんだし、中国の覇権主義などが極めて非常識であるとも思う。そして、自国民が自国を守らない以上、守ってくれている米軍を支援すべきだという議論も理解できないわけではない。だが、だからと言って、我々が戦後の歴史の中で作り上げてきた憲法秩序、つまりわが国のかたちを、簡単に変えてしまって良いかは別の問題だ。

原発問題で、汚染水という現象面だけにとらわれた議論がされ、そもそも原発に何が起きているのかという本質が見過ごされているように、或いは国際経済の下で人件費などの比較優位による価格競争だけに目を向け、真の付加価値の創造を忘れつつ、相変わらず自国技術の優位性に幻想を抱いている経済界のように、本当はより根本的な議論を踏まえて、結論を出していくべきものではないか

わが国は、どうやって世界の中で価値を示し、評価され、尊敬される存在となるか、が一国の国家が変わりゆく世界秩序の中で、その生存を確保する唯一の方策ではないか?わが国の「おもてなし」は本当にまだ生きているのか?今一度心に手を当てて考えてみるべきだと思う。まだ、本気で考えるに遅くはない

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