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ラノベ現象、あるいは広告のボディコピーにおける保守性について

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 広告のボディコピーが保守的な日本語で書かれすぎている、と感じたのは20年くらい前。いまだに世の中の多くのボディコピーはわりにおとなしい日本語で書かれていますね。近代文学の領域内に収まる日本語の作文作法に則(のっと)っているというか。「何度も読みたい広告コピー」という本を本棚から探してきて、ざっと中身を眺めてみると、うん、やはり端正で読みやすくて癖のない日本語が満載なのでした。

 「ライトノベル表現論」(明治書院)の著者 泉子・K・メイナードさんが5月16日付け毎日新聞の夕刊にコラムを寄せていまして、ラノベ現象を「現代の言語文化の一部として否定することのできない」ものであり、「日本語や言語自体の変化と無関係ではない」と書いています。

 確かに、本屋に行くとものすごい数のラノベが棚の一角どころか二角三角を占めていたりします。「これはこれで凄いことだな、日本語の一つの到達点なんだろうな」と思い、その中の一冊を手に取って読んでみるのですが、いつも、目眩に似た奇妙な感覚に侵されて、そっと本を閉じるということを繰り返しています。

 では、どのような文章がラノベ表現といえるのでしょうか。メイナードさんは下記のような文章をラノベ表現の実例として挙げています。そして、わたしに目眩を起こさせる文章も、だいたいこのような文章です。

「どうせ見たんでしょ! 読んだんでしょ! それで私のことバカに、バカ......うっ、う、うう......っ」/「あっ!? ちょっ、おまっ、な、泣いて......」/「......なぁいっ!」(竹宮ゆゆこ『とらドラ!』(アスキーメディアワークス、2006年)

 凄いですね。カッコイイですね。このような表現が、日本語の一つの形態として誕生し、巷間に流布して、市民権を得ていることに日本人として、心から嬉しく思います。

 しかし、どういうわけかいまだに理由は分からないのですが、わたしは、ラノベ的な文章を読むときに感じる違和感を完全に払拭することができません。わたしに違和感を起こさせない文章というのは、たとえば、こういう文章です。

羅甸語は分つてるが、何と読むのだい」/「だって君は平生羅甸語が読めると云つてるぢやないか」と迷亭君も危険だと見て取つて、一寸逃げた。/「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりや何だい」「読める事は読めるが、こりや何だは手ひどいね」/「何でもいゝから一寸英語に訳して見ろ」/「見ろは烈しいね。丸で従卒の様だね」/「従卒でもいゝから何だ」

 あるいは、こういう文章。

「失礼ですけど、ファウストが、よくわかりますか」/「ちっともわかりません。でも、あれには大事な思い出があるんです」/「そうですか」また笑い出した。「思い出があるんですか」。柔和な眼で僕の顔を見つめて、「スポーツは何をおやりで?」

 こういう文章にもホッとします。

「其処ら辺の襤褸切れでいいって訳にゃ行きませんからね、どうせ燃やして灰になるからとは云え、」コズモが云う、「――群衆の皆さんからすればね、何かを燃やしてるんだって気持ちが大事なんです、ね? ええ、そりゃね、靴磨きとか女袴とか、月並な奴も年中作ってますよ、ですが、そういうのよりもっと規模の大きなのを当方としても目指しておる訳で......」

 最初は「吾輩は猫である」、次が「パンドラの匣」、最後が「メイスン&ディクスン」です。漱石、太宰と来て、現代では、柴田元幸がピンチョンを翻訳した文体で近代文学を継承した日本語表現の最高峰に到達しています。

 20年か30年くらい前のどこかの時点で、日本語はいまのラノベ表現に行き着く分岐点に達したのでしょう。もちろん、近代文学の延長線上で書かれる文章作法の系譜も存続し、いまに至っているというわけで、この2つ以外にも日本語表現の系統はさまざまに成長しているのだと思いますが、日本語表現の最先端を行っていると思われている広告コピーおよびボディコピーの表現形態が、冒頭に書いたように、保守的な形にとどまっているというのはちょっと意外な気がしたのでした。

◆参考「何度でも読み返したい。素敵な名広告コピーまとめ」(NAVER まとめ)

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