「ITmedia マーケティング」(7月17日オープン予定)の立ち上げに向けて現在、準備作業にいそしんでいます。最新のマーケティング・テクノロジーに驚嘆し、伝統的なマーケティング思想の奥深さに感嘆する日々です。

セザンヌとマーケティングと世界の数値化

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ある商品なりサービスのマーケティング戦略を考える端緒はメッセージを届けたい人間の思考をトレースすることだ。どういう本を読み、どういう映画を観て、音楽の嗜好はどういう感じで、とか。

それはまるで小説の登場人物を構想する行為じゃないか。小説というのは、一人の人間の人生を描くことで、人類にとっての普遍の真理を明らかにしようとする試みの結果なのであって、そういう意味で、小説家とマーケッターの脳の使い方は、たぶんとてもよく似ている。だから、よくできたマーケティングプランは、優れた小説に匹敵する芸術性を持ち得る。時代の試練に耐えうる深みと強度を持つということである。

いま、六本木の国立新美術館にポール・セザンヌの絵が来ている。セザンヌは1839年に生まれ、1906年に世を去った。明治で言うと39年。夏目漱石の「木曜会」が始まったのはこの年である。

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現代に生きる僕たちにとっては100年以上も昔の人間だ。そんな「昔の画家」の絵を21世紀人である僕たちが眺めることにいったいどんな意味があるというのだろう。

セザンヌの仕事は、ピカソやブラックに代表される20世紀現代絵画の時代を招来した。絵画史という文脈において彼の存在は極めて重い。

しかし、僕たちがセザンヌの絵を見続けるのは、彼の絵が絵画史に大きな足跡を残したから、というだけではけっしてないと思う。少なくとも、僕にとってセザンヌの偉大さは、林檎の描写だけでまったく新しい絵画表現を創造してしまったことにあり、確かにそれは、絵画史における革命の先導者という、後付けの知識によるものでもあるけれど、それでも、実際、彼の林檎を見たときに感じた衝撃には永遠が宿っていた。

マーケティングという行為、というか作用が数字で可視化され、計測可能な状態に変態しつつあるのは、必ずしも、インターネット・テクノロジーの出現やその技術的進化だけが理由だとは僕には思えない。アキレスと亀の哲学的な競争のように、プロセスを可視化し、細分化すればするほど、人はその場から動けなくなる。

大袈裟なことは承知で僕は、マーケティング・テクノロジーの進化というものが、永遠なる概念の矮小化の1つの象徴なのではと考えている。科学は自然現象を数値に置き換え、計測可能な状態にすることを志向する。「神は細部に宿る」わけで、人類は今後、細部に宿る神の分析を徹底的に推し進め、世界の数値化にひたすら邁進するだろう。人類の想像力および想像力に依存する永遠という虚構の存在する余地はどんどん小さくなる。僕たちは細かく刻まれた現在(=イマ・ココ)にとどまり続けることになるのだ。

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