記者としての取材や編集者としての仕事の中から浮かんだふとした疑問やトピックをご紹介。裁判や企業法務、雑誌・書籍を中心としたこれからのメディアを主なテーマに、一歩引いた視点から考えてみたいのですが、まあ、精密でない頭の中をそのままお見せします。

地域の挑戦・国際交流で過疎を生き残る①----皇太子さまのスイスご訪問から

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 皇太子さまは、17日からスイスをご訪問されている。日本とスイス修好150周年記念でスイス大統領から招待を受けてのものだ。

 20日にはスイス北東部の湖畔の町ブリエンツを訪れて、水害対策施設を視察された後、ブリエンツ・ロートホルン鉄道という小さな登山鉄道にご乗車される。路線延長は7.5キロメートルで、最大傾斜は250パーミル(1キロで250メートル登る)、レールの間に敷かれているギザギザのラックレールと、機関車の歯車が噛み合うことで、日本に例をみない急勾配を登るアプト式鉄道だ。とにかくユニークなのが、ボイラーの水が勾配を上る時に水平を保つために、蒸気機関車のボイラーが傾いていることである。

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 皇太子さまの列車を後押しする予定になっているのは、「金谷号」という蒸気機関車(写真3両目)だ。大井川鐵道とローとホルン鉄道は、蒸気機関車を運行しているという共通点から姉妹鉄道関係を結んで40年近くになる。朝日新聞東京版が14日夕刊で記事にしたので参考にお目にかけるが、この長い付き合いには、観光立国スイスのしたたかな過疎の「生き残り策」があり、それに過疎地域を走る大井川鐵道がうまく歯車を噛み合わせ、島田市(旧金谷町)の人たちの素朴な「おもてなし」の感情が両者の関係をうまく保ってきた。

 少子高齢化が進み、過疎地域が圧倒的に増えるという「都会の議論」がある。また、団塊の世代を対象にした観光の行き詰まりが見えてきている。島田とブリエンツの交流を通して「第三の道」が探れないかを考えてみたい。

■外国人と友達になるということ

「スイスの鉄道と姉妹鉄道にならないか」

 という話が、日本に新設されて間もないスイス政府観光局から大井川鐵道に持ち込まれたのは、C11型蒸気機関車による列車を本線運転開始した翌年、昭和52年のことだった。蒸気機関車復活の立役者であり、当時事業開発部部長の白井昭氏は困惑した。

 白井氏は、鉄道技術者としてそれなりに知られた存在だった。戦後間もなく名古屋鉄道の車両技術者としてキャリアを始め、技術革新や海外の鉄道の動向に広く目を向けるために昭和30年代初めから、アメリカ・ヨーロッパの鉄道ファンの友人を増やし、情報を集めた。そこから生まれたのが、先頭を展望室にして、誰でもが前の景色を楽しめる赤い電車「パノラマカー」だった。当時の日本の鉄道が、ラッシュにとにかく詰め込めればいい、という常識に反し、「鉄道の楽しさとはなにか」を追求した「革命児」だった。

 その経験から白井氏は、外国の友達はただの知り合いではなく、お互い行き来し、常に関係を深めなければ真の関係が築けないことがわかっていた。手間も掛かるし、コストもかかる。できればスイスとの交流は避けたかった。しかし、相手は「ぜひに」と強く勧めてくる。そこで、昭和53年、姉妹鉄道関係を結んだ。

■姉妹鉄道は、スイスの「国家戦略」

 ご存じの通りスイスは狭い山国で、常に戦争に巻き込まれる危険にさらされてきたため、国民皆兵など独特の制度と「観光哲学」を備えていた。スイスの主要産業は観光だが、ひとたび戦争が起きたら大打撃だ。だがスイス人はこう考える。「戦争はいつかは終わる。そうしたら、みんないい景色を眺めたくなる」。だから、第一次大戦、第二次大戦を通じて観光産業をしぶとく守り続けてきた。

 スイスの鉄道に国家の補助はない。その代わり政府の出先である観光局が、有望な国に強力な営業をかけて観光客を吸引してくるのだ。戦後の観光客の花形といえばアメリカ人だったが、ベトナム戦争で国力が陰りを見せていた。次なるターゲットを日本に定めての誘いだったのである。

 過疎に悩むのは、大井川鐵道も同じだった。大井川の谷あいに沿って走る路線には人口がそもそも少なく、主力の木材貨物輸送が輸入材に駆逐され、ダム建設輸送も一段落すると、会社は経営危機に陥った。その危機を救ったのが、白井のアイデアによる蒸気機関車の復活運転だったのだ。

 しかし、会社の財政が苦しいことには変わりはなかった。白井氏は「ポリシーとしてなるべくお金を使わず、お互いに〈教えあい、学びあう〉ことをモットーとして交流しましょう」と持ちかけ、これが交流の基本になった。

(つづく)

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