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記者としての取材や編集者としての仕事の中から浮かんだふとした疑問やトピックをご紹介。裁判や企業法務、雑誌・書籍を中心としたこれからのメディアを主なテーマに、一歩引いた視点から考えてみたいのですが、まあ、精密でない頭の中をそのままお見せします。

美濃加茂市長の収賄疑惑でにわかにスポットを浴びた、勾留理由開示公判。その意味と問題点は?

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■司法の「あたりまえ」に風穴を

 逮捕され、拘置所や警察の留置場に留置される。警察・検察は逮捕したら被疑者を24時間以内に釈放しなければならないが、勾留状が出されたら、その日を含め10日間勾留が可能(刑事訴訟法208条)で、再延長もできる。勾留状は裁判官が発行するので、「なんで勾留しているのですか?」という理由を裁判官に問いただす。それが勾留理由開示公判だ。多くは弁護人や被告人が意見を述べ、検察官は出席しない。勾留の理由を述べるのは、逮捕状を出した裁判官である。

 岐阜県美濃加茂市長が収賄の疑いで逮捕された。勾留開示請求公判で裁判官は、「①罪を犯したと疑われる相当の理由、②証拠隠滅のおそれ、③逃亡のおそれ」があると説明したが、弁護人である元検察官の郷原信郎氏が③について抗議し、裁判官を名指しして「新米」などとその容姿やしゃべりかたまであげつらう形で抗議した。それが法律家の間で波紋を呼んでいる。「被告人のためになるとは思えない」「弁護士なら、まともな法律論で勝負すべきだ」など。

 検事の経験もある郷原氏が、「法律家の品位」を捨ててかみついたのはなぜか。実は郷原氏にとって裁判官の容姿などどうでもいいのだ。ポイントは2つある。

①「考えない裁判官」に対する揺さぶり

 勾留理由で裁判官が出してきた3つの理由は、実は、勾留を認める要件が書かれている刑事訴訟法60条にそのまま書いてある。先ほどの「罪を犯したと疑われる相当の理由」を前提に、①被告人が定まった住所を有しないとき、②証拠隠滅すると疑うに足りる相当の理由があるとき、③逃亡し、又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき。」だ。郷原氏はこれに猛抗議をしている。

 検察官から出される勾留状には、「公訴事実の要旨」、つまり事件のあらましのみが書いてあり、「誰がいつどのように賄賂を貰った」などという詳しいことは書いてない。それが明らかにされるのは、起訴されて最初の裁判(公判)の冒頭である。だから、現実として裁判官の判断は機械的になることが多い。だが、問い合わせるなどして判断することはできる。

 最近、弁護人の努力で勾留が認められず、釈放される場合が増えている(といっても、まだ3%台だ)実際の勾留理由裁判のほとんどは、裁判官がこれを言って終わりだ。法曹(裁判官・検察官・弁護士)の間には「セレモニー」という意識が強く、裁判官の立場に立てば、「いつものことをしただけ」である。しかし郷原氏はあえてこれに公判だけでなく「場外」でも抗議することで、形骸化した勾留理由開示公判に風穴を空け、「この事件は違う」ことをアピールする狙いがあったと思われる。

②検察官と二人きりになる「人質司法」への警鐘

 収賄罪は公務員に成立する罪で、国民に対する重大な裏切り行為と考えられている。実際に金品を貰わなくても、要求するだけで成立し、刑は重い重大犯罪である。だから贈収賄を行おうとしたら証拠は残さないのが普通だ。いきおい、検察は自白に頼ることになる。美濃加茂市長は、取調室で検事から収賄を自白するように強く迫られるだろう。郷原氏は、それによって美濃加茂市長が不本意な自白をしてしまうことを警戒していると私は考える。ウソでも自白をしてしまったら、取り返しがつかないのだ。

■いったん自白したら、くつがえらない

 私は雑誌記者として、改革派知事として知られ1990年代から東京電力福島第一、第二原子力発電所のトラブル隠しなどに厳しい対応をとってきた福島県の佐藤栄佐久前知事が2006年に失脚する原因となった収賄事件を追っていた。ここで詳細は省くが、早い話が冤罪である。だが本人は一度、「自分がやりました」と自白している。

 その過程を追うと、勾留されることで世間と隔絶され、情報源はほぼ検事だけになる。検事は「関係者の○○が自白している」と言ったり、マスコミに情報をリークして出た大きな記事を切り抜いて見せたり、周辺の人間を調べに呼びつけて圧力をかける(実のある調べはされておらず、脅しが目的としか思えない)などして心理的に追いつめ、言ってしまえば人格のコントロールを始めるのだ。そして「何も悪いことをしていないのに連日東京地検に呼ばれて苦しんでいる支持者のため」と大義名分までおぜん立てし、前知事は最後にはそれに迎合して自白するのである。それが人間の心理なのだ。

 「検察官には自白してしまったけれど、裁判所なら真実をわかってくれる」。それは幻想である。

 佐藤前知事の裁判がそうだったように、いったん自白してしまったら、「それは検察官に強要されたウソの自白です」と言っても、その主張が取り上げられることはまずない。この裁判では、数々の捜査や取り調べでの疑惑が指摘され、裁判の過程で「真犯人」の存在まで浮かび上がってきたが、前知事の疑いが晴れることはなかった。自白があり、そして、物証がなかったからだ。「日付が改ざんされたフロッピー」という物証が現れて逆転無罪となった郵便不正事件と、明暗が分かれたのはここである。

■いま必要なのは「事実しか言わない」固い決意

 「自白は証拠の王」と昔の捜査機関では言われていた、と批判されたが、現在でもそれは変わらない。郷原弁護士の「パフォーマンス」は、検察だけでなく、裁判官もそれに加担しているという痛烈な批判である。いま取調室で検事と対峙しているだろう美濃加茂市長には、くれぐれも「事実以外は絶対に言わない」この、単純だが密室の取調室では難しいミッションが求められる。

 贈収賄事件では、贈賄側の時効が早く切れたり、贈賄側を事件にしないことを検察官が約束したりして、検察のストーリーに沿った供述がとられていることが多い。美濃加茂の事件にも影響していないか。このような状態が放置されたまま、「司法取引」が制度化されるのは危険だと思うが、それはまた別の機会に。

(佐藤氏について、会員制情報誌『FACTA』のフリー記事はこちら

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