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記者としての取材や編集者としての仕事の中から浮かんだふとした疑問やトピックをご紹介。裁判や企業法務、雑誌・書籍を中心としたこれからのメディアを主なテーマに、一歩引いた視点から考えてみたいのですが、まあ、精密でない頭の中をそのままお見せします。

風呂マンガ「テルマエ・ロマエ」が突きつける、歴史認識への「刃」とは

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お久しぶりです。
いま、本を書いていて忙しいので、続き物は少しお休みをいただきます。
今日はノルマが早めに終わったので、明るいうちからビールをくらい、その勢いで自分のブログに書いたマンガ批評を転載してお茶を濁させていただきます。ごめん。



テルマエ・ロマエはなぜ面白いのか。
それは、「王様は裸だ」と言っているからだ。
なるほど、風呂マンガだけに裸。

「王様」とは作中に出てくる男色のハドリアヌス帝の事ではない。
われわれ現代人のことなのである。

テルマエ・ロマエの、ストーリーとしての構造はひとつしかない。
古代ローマの浴場技師ルシウスが、なぜか現代の日本にタイムスリップしてきて、なにか日本の風呂に関する文化を吸収したところでタイムスリップして帰っていき、それを古代ローマで再現して絶賛を浴びるというお話。
作者ヤマザキマリは飽くことなく、実に単純なこのパターンを繰り返していく。なぜなのか。

そもそも平凡な漫画家であれば、この作品は別の展開になるだろう。
現代の日本人がローマ帝国に突然タイムスリップしてしまう。あまりの事態に戸惑いながらも「風呂が好き」という共通点を生かして古代ローマに日本風の風呂や温泉を作り、喝采を浴びる。
そして現代、ローマの遺跡が発掘されると「ケロリン」などと書かれた黄色い桶が出てくる。そんな話。
似たような話では「戦国自衛隊」なんかがある。
はたしてそういうマンガが、いまの雑誌に連載になるか疑問だ。少なくとも、「バクマン」のサイコーとシュージンなら、そんな話は作らないだろう。

ところが作者はそうしなかった。古代ローマからルシウスを現代に寄越したのである。
「テルマエ・ロマエ」は、わざと視点を倒錯させて、ローマ人から現代日本を見ることで、逆にわれわれのものの見方、とりわけ歴史観を試している途方もないマンガなのだ。

ルシウスの視点とは、実はわれわれ現代人の視点と同じである。
彼は現代日本にタイムスリップしてきて、古代ローマ人の「思い込み」で日本の風呂文化を解釈して驚いたり納得したりする。それはしばしば事の本質からずれている。「テルマエ・ロマエ」の笑わせどころなのだが(「真剣な笑い」については『バクマン』10巻も参照)、これこそが、われわれが歴史に向かう視点と同じなのである。

発掘やその分析、当時残された文献の調査、近現代史においては圧倒的に多くなった資料の渉猟と生存している関係者からの聞き取り。これらファクトを積み上げそして解釈して、歴史はできあがっている。

要するに、「こんなもの」として。

そこには現代に生きるわれわれの思い込みが入っており、その視野に限界があることをわれわれは意識していない。事実がゆがめられて解釈されることがないとはたしていえるだろうか。いわゆる「歴史認識」など、その最たるものではないだろうか。

ルシウスもまた、日本の風呂文化の本質を完全に理解してはいない。何か風呂の設計で詰まると都合よくタイムスリップして、日本の風呂や温泉にある珍しいものをローマに持ち帰って移植し、成功してしまう。つまり日本の風呂文化の表層だけを持ち帰ることができる。ルシウスはローマで認められてどんどん出世し、皇帝おかかえの技師にまで登りつめるが、本質はつかめていないままだ。

われわれも同じである。
現代人は、自分たちが文化的進化の至高の存在、すなわち「王様」として振る舞っている。
現代の視点から過去の歴史を見て、合理的かそうでないかを裁いている。
歴史とはそういうものであり、それ自体が間違いであるとは思わない。しかし、われわれはそういうものの見方を外部から冷静に見つめることはない。

イタリアで絵画修復を修め、イタリア人の歴史学者を夫にもつ作者の狙いは、「王様は裸だ」と笑わすことで、われわれの歴史観にゆさぶりをかけることこそにあるのではないか、という気がしてならない。つまり、「テルマエ・ロマエ」は「逆・ローマ人の物語」なのである。

ルシウス自身は、タイムスリップした日本での風呂体験を自分は完全に理解していないのではないか、と毎回悩む。そして、日本から持ち帰った風呂アイテムをローマに再現していくら絶賛を浴びても、それは自分のアイデアではないと後ろめたさを常に感じているのだ。

われわれにはその謙虚さがない。それだけルシウスのほうが賢い。

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