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どうしたらネットで力づけられたり、助けられたりするのでしょう?コミュニケーションを観察します。

先入観を解いてほしいとき

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匿名は善か悪か(ITpro 01/16) というコラムを読みました。匿名性は私が博士研究で取り組んでいるエリアなのですが、匿名=無責任 という多くの記事に対して、そうとも限らないでしょうと反証をしたいと思っているときにこの記事を見つけました。
匿名こそコミュニケーションの可能性を広げるという視点から書かれています。

このコラムが指摘するのは、「有名人の発言によって議論が止まってしまう可能性」です。個人的な視点を付け加えるならば、ここで言う有名人は、いわゆるそのコミュニティで力や立場を持っている人も含まれるでしょうし、親しい人や恩がある人も含まれていくのではないかと思います。相手がなんらかの権威を持っていれば、「この人なら正しいはずだ」というステレオタイプが働きます。もしくは、相手と親しい関係にあったり人間関係をこわしたくなかったりする場合は、議論を回避する方向にコミュニケーションが向くかもしれません。

人は、相手の名前や地位、立場が分かれば、その情報に基づいて相手を判断します(カテゴリー化)。これは社会的な文脈をあらかじめ共有できるという楽なところもあるのですが、一方で相手に対して決めつけを引き起こす危険性もあります。例えば「学者さんだから本の引用を間違えるはずがない」「20代の女性にパソコンのことはわからないだろう」と言った具合に。

私自身は、匿名を善悪の二軸で語るべきではないと思います。ある話題や場面によって、それまでの自分の履歴や属性を公開するかしないか、もしくはどの程度公開できるかという匿名「性」のレベルコントロールが必要ではないかと思います。私もネットの全ての場所で本名を使っているわけではありませんが、それぞれのハンドル(仮名)にはやりとりの歴史や書いたものも積み重ねがありますし、逆に本名やハンドルで判断されたくない(まっさらな状態で質問したい)ときには、新しいハンドルを使ったり、名無しでいることがあります。

自分の社会的な属性に対する先入観を、一旦解いてもらいたい、書いたものを読んでもらいたい、という視点から「匿名」の価値を再考してみました。

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