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今あらためて組織力が問われる時代に、”負け組をつくらない組織”の作り方を研究していきます。

コミュニケーション論的 「生きる」行為とは?

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街を歩いていて通り過がりに、ついきれいな女性を流し目で追ってしまう・・・なんてこと、皆さんも経験あるだろう。間違いなく、その女性をきれいだと感じたので、つい目が行ったというのが理由であるが、きれいな女性その人自身はそんな風に思って欲しいとばかり考えている訳ではない。ただ、その女性が持つ外見やしぐさ、雰囲気など全てが「きれい」という印象を通り過ぎる人たちに与えているのだ。(もちろん、きれいに見てもらいたいという要求やその為の努力はあるだろうが・・・)

私たちが日々何気なく行動している結果がこの世界を動かしている。直接的な言動による変化もあれば、間接的に回り回り何かに影響を与えることもある。またそれら影響は自らの意図とは関係なく全ての言動で起きうることだ。私たちは良くも悪くも相手からの情報を、視覚を中心としたあらゆる感覚から勝手にその相手(ないしは物事)の良し悪しの判断基準として捉えている。

何もしなくても人と関わることで自らの評価に大きく関わる「影響」を与えるのがコミュニケーションによって生まれるのであれば、積極的にそれを自分がコントロール・デザインすることができれば良いのでは? という意味で、他者に与えるこの「影響」を「メッセージ」と私は呼んでいる。

コミュニケーション論的 「生きる」行為とは?

生きるとは 「メッセージを発信し続ける行為」 である。

先ほどのきれいな女性の例も、見方を変えると「その女性が発したメッセージを受けとった」という言い方もできる。
メッセージというのは発信された瞬間に解釈によってその性質が変わる。それでも、自ら発したメッセージには責任を持つべきは言うまでもない。ましてや、普段の言動全てが自分の周りの世界に何らかの影響を及ぼしていて、そのこと自体が生きる行為そのもの本質だとしたら、この影響力=メッセージのもつ重要性はとてつもなく大きい。と言うか、もっと大胆に言うならば、生きる上で日々の根幹的活動=コミュニケーション が人生を左右するということだ。これが「生きる=メッセージを発信し続ける行為」という所以である。

次回は、その「メッセージ」を積極的に自分がつくるという考え方についてです。

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