「スカイツリーの脚元」証拠写真をゲット。
以前、「スカイツリーの脚だけでいいからね」と写真撮影を依頼したら、とても苦労したポーズを取りながら、撮ってくれた写真には、スカイツリーの脚元だけしか映っていなかった、という話を書きましたが、証拠写真をゲットしました。
こちら(↓)ですって。
そして、この写真以外に、最後、撮り直した、女性の団体の写真が添えられており、それぞれに写真向けの表情とポーズをお取りになっている。
つまり、写真撮影を頼まれた男性が、どうやって撮ろうかと屈んだり、脚を曲げたり、頭下げたりして、スカイツリーの脚元だけを狙っている時、女性陣は、カメラに向かって、ポージングしていたわけで、それを完全に無視して脚元だけを狙っている男性の、その模様を想像すると、それだけで微笑みが漏れてきてしまいます。
この話を掲載した後、あちこちで、「高コンテキストと低コンテキスト」についてのコメントを見かけました。
もはや、「日本だって、低コンテキスト文化だと思ったほうがいいのでないか」「それこそが、グローバル化なのではないか」といったコメントです。
高コンテキストとは、「会話の背景、文脈(コンテキスト)のようなものの共有されている部分が多い」ことを指します。いわゆる、あうんの呼吸とかツーカーとか、うまく空気を読むとか行間を読み取るとか、そういうことですね。「みなまで言わずともわかる」という。一般に日本は、高コンテキスト文化だと、これまでは言われてきました。
低コンテキストは、そういう文脈(コンテキスト)がほとんど共有されていないことを指します。欧米は低コンテキスト。だから、何でも言葉で説明しないといけない、と言われております。
「スカイツリーの脚だけ入ればいいから」と依頼したとき、目の前でどんなふうに女性陣がポーズを取っていても、脚だけをカメラに収めようとした彼は、もはや、低コンテキスト文化の人なのだろう、というわけです。
そして、これから、日本も徐々に低コンテキスト文化に突入していくだろうと、これまた多くの方がそうおっしゃっている。
なるほどですね。
まあ、仕事においては、あうんの呼吸とかつーかーとか言って、明確に言わないから、ミスが起こることも多々あって、言うべきことは言う、伝えるべきことは明確に伝える、というのは、とても大事なことなんですよね。
写真を頼む際も、「私たちの胸から上で、スカイツリーの足元一部でも写っていればいいですからねー」と言うほうがよいのかもしれません。
あるいは、一度、一緒にフレームを覗いてみて、「うん、このあたりでお願いします」とまで頼むとか、依頼する側も工夫が必要なのでしょう。
これから生きていくためには、日本だって、低コンテキスト文化なんだと認識し、きちんと具体的に表現する練習を積むことは、決して、無駄ではないでしょうし。
・・・で、こういうことを言うと、「そんなことまで説明しないといかんのか!」と怒り出す方が少なからずいらっしゃる(と想像される)のが、昭和と平成の間(過渡期)なのだと思います。