満員電車の中で、何が困るって、ドア近辺でかたくなに陣取っている方。いや、ほかにも困ることは多々あれど、ドア近辺で、しかも、横向きではなく前向き(ドアの外向いて)、幅取っているとか、一応横向いているけど、足をまっすぐにしていないとか、で、その人の足を踏んでしまったら、ちっ!と言われるとか・・・。
まあ、そういうなんだかとても頑固な方に遭遇することがありまして、で、私「怒らない50代」を目指しているので、カウントダウンの始まっている今、こういうお方に遭遇しても、いろいろ観察して、あだなを付けたりしているわけでございます。
「あのドア付近に陣取っている人、困るよなあー」的ことをTwitterでつぶやいてみたならば、共感を得ることも多く、ある方は、
「あれを私は、”門番”と名付けています」と教えてくださったり、別の方は、「あれは、今日から”コレステロール”です」と新しい呼び名を伝授してくださったり。
「門番」いいね! 高級ブランドの玄関にいますね。黒服の。あんな感じ?
「コレステロール」 ますます、いいね! なんかどろどろと滞留している感じ、しますし。
で、なんだか全身かたくなな状態で電車に立っている方を見かけると、「門番」か「コレステロール」か、など妄想しているうちに、気に気にならなくなる、というか、妄想が忙しくてそれどころじゃなくなるというか。
ところで、何が困るって・・・。は、ほかにも色々ありまして、ダウンコートにたいていフードがついていて、そのフードの周囲にはファーがくっついている。あれが、混雑している車内では、似たような背丈の場合、顔をくすぐる。私は、購入したら、すぐフードは全部取り外してしまうのですが、後ろで顔をくすぐられている人がいるって、想像しないのかなあ、などと思ったりします。
(つい数日前は、ドア脇に立っていた女性のフードのファーが、座っているおじ様の頭の上にずっと乗っかっていて、それがカツラみたいで、すごくおかしかったのですが、なぜかおじ様は熟睡されており、頭にご自分の髪とは別に毛皮が乗っていることにはまったく気づいていらっしゃらないのでした。)
ほかにも困ることはあります。
すごーく混んでいるのに、携帯電話やスマートフォンをしまわない人。目の前に持っていけないので、20センチくらいは話しますわね。その分、その人の領域が増えるわけですが、どんなに混んできても、ぜーったいにTwitterをやめない人やメール打ち続けている人、電子新聞読んでいる人などもたまにいます。その分、私の体勢が斜めになっていることなど気疲れもせず(涙)。
こういう「絶対に手放さない人」には、いつも心の中で「キグチコヘイ」と呼びかけているのですが、この「キグチコヘイ」は、昭和といえども古すぎて、たいていの人には通じないと思われます。
「キグチコヘイ」がわからない方は、ぜひ、ググってみてくださいまし。
先週(2/15水曜日)、当社のトレーニングセンターで「夜のセミナー」というのを開催しました。
私は、主催部門の人間ではないのですが、たまたま私が担当しているお客様が数人来場してくださることとなり、それもあってアテンドいたしました。
さて、講師の岩田松雄さんは、新卒で日産自動車に入られ、そこから、ボディショップ、スターバックスジャパンなどのCEOを歴任されてきた方です。
その「専門経営者」への道を歩む中で、経営者に必要なものは何だろう?と模索され、現時点で「これが大事なのではないか」と思うことを、ドラッカーと関連付けて話してくださいました。
いくつか印象に残っていることを以下に列挙します。
●初めて社長というものになったとき、社員を前に演説をした。「これからは企業価値だ。キャッシュフロー経営だ」と自信を持って宣言したのだが、どうも社員の反応が芳しくない。ビジネススクールで学んだことを張り切ってそのまま伝えたが、なんだか社員には通じていないように感じた。 何かおかしい、と思い、徐々に、「企業価値だとかキャッシュフロー経営だ」という表現をやめ、その代り、働く姿勢について語るようになった。たとえば、「挨拶をしよう」といった当たり前のことから。語るだけではなく、自分でも掃除するなど、動き始めた。すると、社内が徐々に変わってきた。「ああ、社長というのは、どんな姿まででも見られているのだ」とわかった。
●企業は何のためにあるのか?自問自答した。株主のため、とか、利益追求のため、とかいろいろな言い方があるけれど、ある日天啓のようにひらめいたことがある。それは、「世の中をよくするためにある」ということだ。これが企業のミッションで、自分のミッションでもあると思った。だから、企業活動を通じて、このミッションを実現していかねばならないと思っている。
●ミッションが大事なのは、企業とか社長だけではない。個人個人でも大切なことだ。「自分のミッションは何か?」を考え続けてみることには意味がある。
●ある企業のCEOをしていた時のこと。従業員満足度の調査をした。売上利益が上がった年は、前年と比較して従業員満足度は向上した。「売れている!」という実感をみんなが持ったから、明るくもなったのだと思う。しかし、そこから先は、高止まりのようじゃ状態になった。なぜだろう?と考えた。実は、従業員にとって意味のあることは、もっと別にあって、「人間成長ができているかどうか」なのではないか、と気づいた。「ここにいれば、人間的に成長できる、去年と比べて、自分は人間として成長できた」と思える時、満足度も上がるのではないだろうか。
●マネージャにとって大切な資質は何だろう? 「真摯さ」ではないかと思う。英語では、Integrityを表現するのだが、これを「真摯さ」を訳したい。 最後の最後に「やってはいけないことを踏みとどまれるか」なども真摯さの表れである。
●マネージャでも経営者でも、何もかもを部下や従業員に知らせることができない。それは、コミュニケーションが届かないという意味ではなくて、言えないこともある、という意味でも、だ。それでも、部下や従業員が「この人がいうならついていくか」と最後には思える状態でなければ、人は動かない。なら、どうしたらいいのか? それは「人として信じられる」という人格の問題だろう。だから、マネージャとか経営者は、人格を磨くことが大事なのだ。
・・・。岩田さんが思考錯誤し、考え抜き、失敗も成功もして、そして、現時点で、「こういう考えに至っている」ということで紹介されたのが上記のようなお話でした。
さらに、ドラッカーを何冊も読んでみたら、まさに、そういうことが書いてあった、とも。(セミナーの中では、ドラッカーの著作もたびたび引用されていました)
私、常々思うのですが、経営者の方とかマネージャになって大きな組織を見ることになった方とか、必ず、壁にぶち当たり、そして、試行錯誤し、悩み抜いた時、まず間違いなく、過去の偉人や様々な学者の本を読んでみるのですよね。
ドラッカーだの松下幸之助だの、あるいは、中国の古典とか日本の歴史上の人物を主人公にした小説とか。
そして、大量の書物を読んで、行き着くことは、「ああ、自分が考えていたことはだいたい間違っていなかった」とか、「結局、だれもが同じことを言っているな」とか、そんなことで、そういう本に書かれたことから再度学び、時に軌道修正し、そして、確信できたことをまた現場で試す、ということを繰り返しているようなのです。
迷った時に、本を読む。なんか、わかるなあ・・・。よりどころとしての書籍。
特に、偉くなってしまうと、そうそう他人に相談できない。(だから、エグゼクティブコーチングという分野もそれなりに発展しているのだと思います)
相談できないけれど、何かに頼りたい。その時、過去の偉人なり歴史なり学者なりの言うことに耳を傾けるのでしょう、きっと。
本というのは、自分の経験や考えと照らし合わせながら読み進める時、もっともその価値が光るように思います。鵜呑みにするのでもなく、かといって、全面的に否定しながら読むのでもなく、フラットな気持ちで書物に対峙すれば、そこから何かを拾い集めることができるのです。
上記、箇条書きにした、岩田さんの言葉一つ一つも「なるほどなぁ」だったのですが、それ以上に、「何かあったら本を読んでみる」ということに私は深く感じ入りました。
なお、岩田氏を招いたセミナーはシリーズ化されるとのことですので、ご興味がある方は是非次回ご来場くださいませ。多くの「起業家」と「起業を目指す方たち」が参加なさっていました。
【2/15(水)のセミナーはこんな感じでご案内しました】
経営者になる前と後で受け止め方が変わった!ピーター・ドラッカーのメッセージ
「なるはや」という言葉を知ったのは、実は数年前です。20年以上仕事をしていて、一度も耳にしたことがなかったのです。
何で知ったか? 糸井重里さんの『大人語の謎。』という本で、です。(この本、すんごく面白かったので、お奨め! 社会人って、謎のワードを使って生息しているものなんだなあ、と改めて思いました。「さくっと」ってどういうとき使う?など)
なるはや:なるべくはやく。なるべく早く。なるべく早くしてね、の時に使う言葉なんですねぇ。
「”なるはや”でお願いします」
「”なるはや”で片づけてね」
きっとそんな風に使うのでしょう。
さて、ある時、「みなさん、”できるだけ急いで”などと指示を出しているかも知れませんが、”できるだけ急ぐ”の定義は人によって相当異なるはずですよ。」と言ってみたことがあります。
それを聞いた20代のリーダーがさっそく職場で実験してみたそうです。
「これ、できるだけ急いで処理してね、と言った場合、みんなは、”どのくらいで処理するべき”だと思うの? 一人ずつ、言ってみてくれる?」
すると、メンバの答えは以下のようなものだったそうです。
「2時間以内くらいかな」
「今日中」
「今晩中」
「明日の朝くらいまで」
「今週中」
リーダーは、のけぞるほどに驚いたと言います。「えっ!? みんな、そんなにとらえ方が違うの?」と。
「私の”できるだけ急いで”は、2時間以内!というつもりだったけど、これだけ幅があるの? これほどにとらえ方に違いがあるの? だから、いつも”期待通りに成果が出てこない”と私は思っていたんだあ。 時間の感覚がこれほどまでに異なるのに”できるだけ急いで”と言ってもダメなのだなぁ」と深く反省したとのこと。
これ、ありがちですよねぇ。
うちの部下は仕事が遅い、と思ってしまうかも知れないけれど、実は、指示する側が「なるはや」としか言っていない。
それでは、意図が正しく伝わるのは難しいのです。
・・・・で、こんな話を先週の研修でしたところ、ある方が「はっ!」とつぶやき、にやりとしました。
「○○さん、何か心当たりでもおありですか?」
「あ、ええ。今、インド人と仕事をしているんですが、メールにASAPって書いて送ることが多くて、でも、なんだかうまく通じないんですよね。僕のASAPと相手のASAPがきっと全然違うんだ。何月何日何時、と指示しないから、うまく意思疎通ができないんだ、と気づきました(笑)」
ASAP(As soon as possible:できるだけ早く)、日本のビジネス用語なら、それこそ”なるはや”ですね。
日本語は、あいまいに表現することが多く、「ちょっとティッシュ2-3枚とってくれる?」なんて言い方も日常ではよく使います。「2枚なのか3枚なのかはっきりせー」と突っ込むことなく、適当に「2-3枚」を相手に渡すわけです。手にしたティッシュは、2枚かも知れないし3枚かも知れないし4枚かもしれませんが、だいたい、そんな感じ、で用は片付く。
けれど、仕事において、このあいまいさがミスコミュニケーションの元になるのですねぇ。
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糸井さんの『大人語の謎。』 ・・・この本で知った「ビジネス用語(?)」は数知れず。面白い言葉がいっぱい出てきます。
新社会人になる内定者のみなさん、読んでもいいけれど、あまり染まらないようにしてくださいね(笑)。
今朝、とある方のブログを拝読し、「ん?」と思ったついでに、「料理理論」についてツイート連投(Twitterで)したのですが、それをここにまとめておくことにします。
「料理理論」・・・。私の造語です。
「美味しい料理を作るためには、美味しい料理をたくさん食べたほうがよい。美味しい料理がどういうものか体験がないと、自分が作ったものが美味しいのかまずいのかもわからない。料理回数を増やすのは訓練と言う意味で大事だけれど、その前に、自分の舌の体験を増やすことも大事だ」というものです。
もっと簡単に言うと、
「Outputの質を高めるには、Outputの回数をやたらと増やすよりも、まずは、Inputの量と質を増やす。Inputの量と質に支えられてOutputの量を増やすと、結果的にOutputの質が高まる」
ということです。
例を挙げると、
●文章力をつけたければ、文章をたくさん書くのも大事だけど、その前に、よい文章(や、よくない文章)をたくさん読んだほうがいい。そうすれば、言い回しや語彙が増えて、自分が書く際に、言葉選びがうまくなってくる
●上手にプレゼンしたいと思うなら、プレゼンの練習ばかりしていないで、まずは、よいプレゼン(や、よくないプレゼン)をたくさん見る、聞くほうがよい。それによって、「こういうやり方がいいなあ」と技も盗めるようになってくるし、その上で練習すれば上達する
・・・なんてことをあらわしています。
この「料理理論」は、よく新入社員研修や、新入社員を指導しているOJT担当の方たちに伝えるのですが、お話しすると、「だよねぇ」と納得されることが多いものです。
新入社員から時々相談を受けます。「日報を書くのに、すごく時間がかかる。何を書いたらいいかわからないし、時間かけて書いたのに、先輩からは、何を言っているかわからない、と赤ペンでたくさん修正が入ってしまう」「人にうまく説明できない。どうしたら説明が上手になりますか?」などと。
「書く練習」「話す練習」を繰り返すのはもちろん重要だし、「書かない」「話さない」ままで、時間だけが経過したらうまくなるというものではありません。
ですが、たとえば、「語彙力が決定的に不足している」とすると、自分が持っている言葉の在庫だけで書いたり、話したりしようとするから、限界があるのです。語彙だけではなく、文章の組み立てとか細かい言い回しなどでもそうです。
だとしたら、まずは、インプットのほうを見直してみては?と思うわけです。
「料理理論」。
「着ぐるみメソッド」に次ぐ、第二弾です(笑。
「オルタナトーク」が「怒り」をテーマにしているようですが、他の方のをあまり読みもせず(すんませんw)に、「怒り」というキーワードだけ反応して、つらつらと書いてみます。
30歳前半くらいまで軽いアトピー持ちで、顔だの首だのしょっちゅう痒くなっておりました。皮膚科に通い、軽いステロイド系の薬をもらって治療しつつ、医師からは、「掻いてはいけない」と、当たり前のご指導を受けました。
その時、皮膚科主治医の言葉はとても印象的でした。
「痒いは、痛いの親戚!」
「痛点」というのはあるけれど、「痒点(ようてん?)」ってのはないんだよ。だから、「痒い」というのは、「痛い」の親戚で、「痛い」の軽いのが「痒い」なのだ。だから、「痒い」と思って、掻くのは、「痛い」のを掻いているのと同じだから、「痛い」だったら、掻かないでしょう? 「痒い」のを掻いてはいけないよぉ・・・。そんな説明だったような。
(これは、中学生の時に訊いた話なので、もう35年くらい前のこと。今の医療・治療と同じなのか違うのかは知りません。)
「痒いは、痛いの親戚」。
へぇ!! と、目からうろこ。 なるほど。痛いの軽いのが痒いなのかー。
「怒り」も似たような部分があるのではないかなあ、と思ったりします。
不肖ワタクシ、若かりし頃、ケッコンしていたことがありますが、「洗濯」について、オットと意見が合わずに苦労したことがありました。(20代の結婚で、まあ、今思えばくだらないことといえばくだらないし、案外、重要なことだったのかも知れないと思わなくもないのですが)
基本的には、家事全般をワタクシがしておりまして、洗濯もしかり。
洗濯が終わったものを洗濯機から取り出すと、オットの下着だのシャツだの靴下だの、ことごとく裏返しなのですね。靴下などは、裏返しの上に丸まっている。
裏返しになっているすべての衣類を、干す際に表に反すのが、とてもイラっとするものでした。(裏返したほうがいい、という説もあるかもしれませんが、田中家は表にして干すという家だったので、習慣として、表にして干したい)
仕事もしていて、できるだけ家事の時間を短縮したいのに、オットのものを干すのに、いちいち全部表に直すことで時間を取られることに本当にイライラっとしていました。
ある日、とうとう我慢できず、「洗濯機に入れる際、表に直しておいてほしい」と伝えました。すると、オットは、こう言いました。
「脱いだまま入れるほうが楽だし、裏のまま干してもらって構わない」
「そのまま干したとしても、畳む時にやはり、表に直さなければならないじゃない」
「裏のまま、畳んでおいてもらっても全然かまわない。着るときに自分で直すから」
「それは気持ち悪いのよ」
・・・不毛です(笑
私は、表にして干したい、当然、表の状態で畳みたい。
オットは、裏で干してもいいし、裏のまま畳んで箪笥に入っていても構わない。
でも、私が「洗濯」を担当している限り、私の考えに合わせて欲しい、とかたくなになりました。
ある日のこと、仕事から帰って来たオットが、風呂入るぅーとお風呂場に消えていきました。
ふと見ると、寝室→ダイニング→洗面所→風呂の前・・・と、オットの脱いだものが点々と並んでいました。ヘンゼルとグレーテルが落としたパンのように。すべてが裏返しで。
裏返しのシャツ→裏返しの下着→裏返しの靴下→裏返しのパンツ・・・そして、お風呂の入り口には、極め付けに裏返しのスリッパ。
それを見た時、その無言の抵抗に涙がこぼれてきたのでした。
「ああ、こんなにまでして、裏を主張するのか」と。(ホント、くだらない話ですね、こうして書くと。笑)
・・・
このヘンゼルとグレーテルが道々に並べたパンのような、裏返しのものどもを眺めながら、怒りは悲しみに変わったのでした。
「怒り」というのは、「自分の心の中にある、”こうあってほしい”とは異なる結果に対して湧く感情」だと思います。期待通りにならない、自分の思うようにならない時、怒りを感じる。
でも、それは、悲しみと隣り合わせのように思います。自分の想いが通じない、自分の考えが軽んじられた。自分が大切にされていないように思う。(全部、自分の中で起こっていること、です)
だから、「怒り」と「悲しさ」は親戚なんじゃないか。
昔から怒りっぽかった80歳の父、老境に入り、さらに怒りっぽく、何で怒りだすか娘も想像つかないことがあるほどです。
軽い脳梗塞を経験しているため、言葉が多少不明瞭な部分があります。話している時、一瞬、なんと言ったのか聞き取れないことがあります。「ん?なあに?」と優しく聞き直したつもりであっても、父は、それにイラっとするらしいのです。 「#%○XS(w%!!! と言っているのにわからないのかっ!」と突然怒鳴り始める。
父が何かを私たちに頼んだ際、こちらも手が離せないことがあって(天ぷらを揚げているとか)、すぐ応じないと、「頼んでいるのに、なんでやってくれないんだっ!」と怒鳴る。 怖いんです。父。
ただ、これも「怒り」と「悲しさ」は隣り合わせ、と思えわなくもなく。
現役時代、ばりばりと仕事をしていて、本当に仕事しかしたいことがなくて、引退したら、急にしょぼんとしてしまい、食べることくらいが楽しみで、でも、身体が多少不自由になってきて、思ったことが伝わらない、自分の動作も緩慢になり、周囲と同じように振る舞えない。
「80歳になればわかるよ」とよく言われますが、なんせ、母も私たち娘も今はその歳じゃないので、そんな「伝家の宝刀」的言葉を言われても、黙るしかない。
きっと、私たちにだけではなく、うまくできない自分にイラつくのだと思うのです。
「悲しい」の表現方法が「怒鳴る」という「怒り」に変換されてしまう。
「悲しい」と表現された方が私たちも対応の仕方があるのだけれど、(だって、突然怒鳴られたら、ビビるだけだし、「触らぬ神にたたりなし」で、できる限り、感情を刺激しないように、と気を遣うばかり。穏やかな気持ちで接するのはとても難しくなりますから)でも、当人は、素直にそうも言えず、とりあえず、身内に甘える気持ちもあって「怒り」で表現するんだろうなあと。
・・・
痒いのが痛いの親戚だったのと同じように、「怒り」は「悲しさ」の親戚なんじゃないか、と思うのは、こんな体験からなのでした。
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「怒り」については、これまでに何度か書いているので、エントリーのリンクを。
●『もう、怒らない』を読んで、「怒り」のコントロール法を学ぶ
→ 自分が不当に扱われたということが怒りになる、という話から・・
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2012/01/post-7475.html
●誰かによって、「怒らされている」」のではない。
→ 平木典子さんの本を読んで、「自分で自分を怒らせているのだよ」「自分が対応できない事態に遭遇したら、怒りを感じる。つまり、自分はこの事態に対処する能力がない、と言っているようなものだ」というお話・・・
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2011/08/post-3ac3.html
久々に「コミュニケーションスキル」の研修を担当しました。2日間だったので、1日目の終わりに「アクティブ・リスニング(傾聴)」の宿題をお出ししました。
「2日目の朝までに、誰かに”アクティブリスニング”を試してくださいね」というもの。
何人かが試し、今朝、報告をしてくださいました。
ご家族相手に試した方が多く、パートナーを相手に、または、お子さんを相手にという例がたくさん紹介されました。
それを聞いていて、ああ、やはり、と思ったのは、「家族」というのは、案外ちゃんと話をしていないんだな、ということです。
いや、仲が悪いとかいいとかそういう話ではなくて、夫婦になったり、親子であったりすると、そんなに深い話を実はしなくなる。 あるいは、話しているけれど、ちゃんと聴けていない。
(それは、平和な家庭だから、という面もあります。平和だからこそ、日常で込み入った話をする必要がない。)
でも、宿題として「リスニング」を意識していただくと、こんなことが起こるのです。(今日紹介された例だけではなく、今までにお聞きした例をご紹介)
【ケース1】 夫⇒妻の話を聴く
普段はちゃんと聴いていないのに、「ながら聴き」もせず、落ち着いてじっくり聴くという姿勢を示すと、妻は、「むむ? 変だ。アヤシイ。何があったの? 何があるの?」と思う。
仕方ないので、「宿題なんだ」とカミングアウトすると、「あ、そうなんだ」と納得される。
でも、こうやって話を聴くと、「へぇ、そんなこと考えているんだ」「それが悩みだったのか」「そのことで苦労していたんだね」ということが夫もわかる。妻は妻で「聞いてくれた!」とすっきりする。
【ケース2】 妻⇒夫の話を聴く
いつもは自分がしゃべっていることが多いのだけれど、夫の話を聴こうと思う。夫はいつになく職場の話をする。すると、夫の仕事をわかっていたつもりでも、案外知らないことが多いことに気付く。「へぇ、この人、こーゆう仕事していたんだ」と新しいことを知る。
夫は、「今日はゆっくり話せてよかった。聴いてもらえてうれしい」と素直に喜びを口にしてくれ、なんとなく二人とも気分がよかった。
【ケース3】 父⇒息子の話を聴く
普段はあまり接点のない大学生の息子と、珍しく会話した。「宿題」でもあるし。「息子の将来の希望とか考えていること」を初めてじっくり聴いたかも知れない。
息子は息子で、最初はぎこちなかったけれど、「おやじに話ができてよかったよ」と言っていた。
【ケース4】 母⇒娘の話を聴く
小学生の子供の話を普段は家事をしながら聴く。でも、その日は夕食の支度の手をとめて、リビングで座ってゆっくり話を聴いたら、いつも登場しないお友達の名前がたくさん出てきた。 娘のお友達を把握しているつもりだったけれど、ゆっくりじっくり聴かなければ登場しない交友関係というのもあるんだなあ、と思った。
娘は、話をしたら満足したのか、いったん自室に戻り、静かに宿題をしていた。
・・・・・
一般に「女性のほうが共感を求めて、話を聴いてもらいたいものだ」と言っりするけれど、こういうさまざまな例を見ると、「男女問わず、年齢問わず」、話を聴いてもらえるのは、とても嬉しいことなんだな、ということがわかります。
一方、案外、人は他者の話をきちんと聴いていないことも垣間見えます。特に、家族がそうなりやすいようです。で、普段聴いていないから、ちゃんと聴こうとすると、「あれ?アヤシイ」と思われるし、きちんと聴けば、「家族であっても知らないことがいっぱい!」と新しく発見したりするんですね。
身内というのは厄介なもので、照れくさいから、なかなか聴くことができないものです。
もちろん、中にはとてもしっかり語り合う夫婦、親子もいるのですが、それは案外稀有な例ではないかしら。
本当は一番身近で一番大切な存在のはずなのに、実は、腹を割って話すことが少ないのが、家族なのかも知れません。
家族ってなぜ、そんなに恥ずかしいのでしょうね。不思議。
昨日(2/14)は、バレンタインデーならぬ、ハラヘッタデーで、人間ドック終わりました。
女性専用(レディース:と書くと、何か別のものを想像してしまいますが)の「人間ドック専用施設」に行ったので、洗面所で隣にひげおじさんが並ぶこともなく、おしゃれな空間でのんびりと血を取られたり、心電図測られたり。
採血。目を逸らす人が多いと思いますが、わたしは、しかとこの目で見ます。凝視します。針が刺さる瞬間から抜ける瞬間まで。見ないと損する、と思って、ちゃんと見てます。
「この血管でお願いします」と自分で指示すら出します。すごくわかりやすい血管の持ち主です。
バリウム。今年も上手に一気飲みしました。なんせ、お腹空いていましたし、喉も乾いていましたし。ひげも作らず、名人級です。
しかし、あの台の上でぐるぐる回らされるのって、「大の大人」がなんて目に合うんだろう?といつも不思議です。 社長であろうと国会議員であろうと、たいていのことは秘書がやってくれる立場の人であろうとも、あの台の上でぐるぐる回るのは、自分です。 人間ドックの世界では、「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。ただ、「台の上で人は回る」のであります。
ところで、私、このたび、身長が160cmの大台に乗りましたっ!
実は、成長期が終わりずーっと157.9cmとか158.2cmとか、そのあたりを行ったり来たりしていたのですが、35歳くらいの時、ふと、「あれ? 同じ身長のはずの友達が低く見える」「自宅の調理台が低くなった」と思ったことがありました。
その年の健康診断で「159.3」といった数字をたたき出し、以来、「159.7」「159.×」がずーっと続いておりました。
身長を伝える場面では、「158cm」と言っていたのをある時から「160cm」と言うようになりました。が、正確に言うと、まだ「160cm」の大台には乗っていませんでした。
しかし、しかーし、昨日、とうとう念願の「160cm」になったのです。
電子な身長計測器の画面には、「160.0cm」と表示されていましたっ! これで、大げさでもサバでもなく、「わたくし、160cmです」と堂々と言えるようになりました。
この10年~15年くらいで2cm伸びたわけですが、このペースでいけば、100歳のころには170cm近くなっているのではないか? そうなったら、「ObaCan」ではなく、「BabaCan」にデビューしようかしら? という野望も抱いているのであります。
父は内科医だった(だった、とは、現役は引退している、ということであって、存命です)。たまに職場の話を食卓でしてくれるオヤジであった。ある日、こんな話を。
「○○さん(←高齢の女性)、来週は検査だから、朝ご飯食べずに来てね」
「はい、先生」
・・・翌週、○○さん来院。
「先生、朝ご飯食べずに来い、と言われたので、朝は”パン”食べてきたよ」
「・・・・・」
・・・ウソのようなホントの話である。 検査の意味がつうじていなかったのですな。
さて、検査といえば、我が敬愛する漫画家でありエッセイストでもある東海林さだお氏には、『ドック上がりのトンカツ』という名文がある。(『トンカツの丸かじり』(文春文庫収録)
人間ドックに行く前日20時から絶食・絶飲。正午にドックが終了するまで、「16時間飲まず食わず男」になる。「ドック上がりの16時間飲まず食わず男」は、「もう何をしてもいい」というキモチになる。
普段なら身体に悪いから、と控えるけれど、ドック上がりだから大胆に。「肉だ」・・・さらに「油だ」・・・さらに「ビールだ!」となり、トンカツ屋に入ると、「もっと油だ」とロースを注文し、「もっと多くのビールだ!」と大ジョッキを頼む、というお話。
こうやって要約してしまうと、なんてことないように読めてしまうけれど、東海林センセーは、これをリズミカルに書いていくのである。
人間ドックの日は、この名文を必ず思い出す。「私も18時間飲まず食わず女、だ。がるぅ~~!」という気分で街中を闊歩したくなるわけだが、今日(2/14)はまさにその日。
よりにもよってバレンタインデーに人間ドックの予約を入れるとは。いや、もう関係ないけど、とっくに。
バレンタインデーではなく、ハラヘッタデー。(← 音に反応するとこうなります。笑)
不思議なことに、普段、何かで忙しくて食事を1回スキップしても、これほどまでに空腹を感じないのに、「食べては駄目」と言われた途端に、「食べ物」「飲み物」「食べ物」「飲み物」と、脳内の75%くらいがそれらで占められる。
マズローの欲求五段階説で言えば、「生理的欲求」という最下位の欲求充足こそが、わが喫緊の課題になるわけなのだ。「安全の欲求」よりも「所属と愛の欲求」よりも何よりも「生理的欲求」。
マズローさんは、人間ドックを受診する日に、この「欲求五段階説」を思いついたのかも知れない。
ところで、バリウム。あれが苦手、という人は多いのだが、なんでも挑戦する心が湧いてしまうワタクシは、白いひげを作らずに飲むということに血道を上げている。レントゲン室から出てきて、うがいする場所で隣に「ひげおじさん」がいたりすると、心の中で「勝った!」と小さくガッツポーズをするほどだ。
バリウムは、以前よりもうんと美味しくなった。ヨーグルト味?風とでもいうのか。だから、18時間の空腹の身には、「おっ、案外美味しいではないか」としみじみしてしまう。ゴクゴク。ごくごく。
しかし、ここで問題が。
18時間飲まず食わずを耐え、終わったら美味しいものをうーんと食べよう!と決意しているのに、ここにずしっと重量感のあるバリウムを胃に納めてしまうと、急に空腹感が遠のいてしまうのだ。
「私の空腹を返してくれ~」と思う。「バリウム上手に飲むからさ、だから、空腹感は奪わないでぇ~」と切に願う。
・・・・かくして、ドック明けの、バリウムで重くなった胃袋を抱えながら、実は、東海林センセーほどには”がるぅ~~!”とはならず、普通に遅めのランチをとることとなる。
さて、今日は、どこでランチをしましょうか♪
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このエントリーを書くために、我が家にある東海林さだおセンセーの本、約50冊の目次を全部開き、ようやく見つけました。
しかも、最初に当たりをつけた「丸かじりシリーズの30巻目あたり」というのは合っていたのに、1回目に気付かず、3週目に入って、「やはりあったじゃないか」と見つけたのが、第28巻。 夕べ、本箱の前で1冊ずつ目次を丁寧に追い、50冊、しかも、3週で約150回、目次をめくっていたのでありました。食べては駄目、と言われて、ひたすら暇だったんです。
夕食後、リビングでくつろいでいる時、やおら携帯やスマートフォンを取り出して、何やらしだした夫。何か真剣な様子。しかも、見ているだけではなく、書き込んでいる。仕事かな?などと見るともなしにその様子を眺めていると、ぱたっと携帯・スマホ(長いので、スマホとします)をテーブルに置いて、突然、しゃべり始める夫。饒舌に。
「いやぁ、参っちゃったよ。会社出るときから気になっていたんだけどさ、明日朝から会議だって」
とか
「全くこーゆうもの持つようになったら、いつまでも仕事がおっかけてきて大変だよ」
などと。
聞いてもいないのに、尋ねてもいないのにぃ、なぜ、言い訳のように長い解説を!?
さて、これは、怪しいのではないか? 何も言ってないのに、長い説明。怪しい、あやしい、アヤシイ!!
・・・・というようなシーンがあったとします。
浮気バレる瞬間ですね。 ドラマなどに出てくるシーンです。
しかし、これ、別に夫婦でなくても、よくある光景で。
たとえば、複数人での会議中。あるいは、会食中。 一人が携帯・スマホを取り出して、ちょこちょこっと操作する。そして、しまう。
「仕事でもあるのかな?」とコチラはさして気に留めていないのに、ポケットやバッグに携帯・スマホをしまった後、たいていの人は語る。
「今、返事しておかないと忘れちゃうことがあるもんで・・・テレテレ」
「やっかいなことを言ってくる人がいて、めんどくさいんですわ・・・テレテレ」
「最近、電話でもいいことをいちいちメールしてくる人がいて・・・テレテレ」
いや、別に私、気にしてませんけど。それぞれにご事情がおありでしょうから・・・(笑
・・・・。
そうなんです。
人と会っている時、携帯やスマホを取り出して覗き込むことと、さらに書き込み(返信などいろいろ)をすること、というのは、たいていの人が、ちと「後ろめたい」気持ちを持っているようなのですね。
だから、尋ねてもいないのに、言い訳のように事情説明をする。
黙っていることに耐えられないのだと思うのです。
会議中や食事中に見なくても済むかも知れないものを、ふと気になって見てしまった。ふと気になって見てしまう、ということは、今、目の前にいるリアルな存在(たとえば、私など)より、ネットの向こうにいる人を一瞬だけ優先したことになりはしまいか? そんな心の中の悶々が、「長い言い訳」に走らせるのだと思います。
だから、こういうオトナの言い訳って、ちょっとかわゆい。ハハハ。
私、先ごろ「当年とって39歳」になりました。
・・・というオヤジギャグから始めてみました。(当年・・十年とって(引いて)39歳、という意味ですね。わかります?w)
そう、そういういい歳なので、数年前から、いわゆる、いわゆる、視力方面のピント方面に課題が出てきました。もともと近視で、コンタクトレンズ使用なのですが、コンタクトは遠くが見えるように作ってあるので、手元が見えない。ぼやぼやーっとしか見えない。
たとえば、電車の中で本が読めなくなってきた。
たとえば、食べているご飯の一粒一粒が見えなくなってきた。
たとえば、爪を切ることができない。
細かいExcelシートをA4で印刷されたりすると、もう駄目。(10年前、上司たちが「字が小さくて見えないよぉ。ブツブツ」と言っていたことを、その時は、何を言っているかちーっともわからん、と思っていましたが、今は、本当によくわかる、わかる。 『あの時は、冷たくしてゴメンナサイ』と今ここで謝っておきます。)
そんなわけで、作りました。 シニアグラス? 老眼鏡? 1年前の誕生日に。
「コンタクトレンズをしたまま、手元だけ調整する用」です。なので、書類見るとき、PC見るときはかける。街を歩く時はつけない。
これでいろいろ問題が解決しました。しましたが、呼び方が気に入らない。
「老眼鏡」とはなんね? 「老」とはなんね? こういうメガネは若いもんには必要ないわけで、青いもんにも必要ないわけで、だったら、名前をもっとオサレにしてもよいのではないか。
そこで、1年前から提唱しているのが、「マチュグラ」です。
マチュア・グラス。 Mature Glass。 「成熟したオトナのメガネ」っつうことです。
マチュグラ。 はい、発音しづらい。意味も不明ですが、マチュグラ。 老眼鏡より100倍いいのではないだろうか。それに、発音しづらいと言っても、きゃりーぱみゅぱみゅよりは、発音しやすいぞっと。
マチュグラ。流行らそうではあーりませんか。
私のマチュグラは、こちら(↓)。(関係ない指輪写ってますが)
これで、遠くも近くも見えるようになり早や1年。オフィスでマチュグラ姿を人に見られても、何も突っ込まれなくなりました。
これはこれで調子よかったのですが、先月の誕生日を記念して、今度は、近視用のメガネも慎重しました。上記マチュグラは、「コンタクト装用+マチュグラ」という組み合わせで使用するものですが、もう一つ、コンタクトが不調の際に使うふつうの近視用メガネとして。
ワインレッドの綺麗なフレームのもの。遠近両用ではない、のに、不思議なことに、これはかけたまま、本が読めるのです。PCも操作できます。ご飯も見えます。
同じ近視の矯正でも、コンタクトは目に直接載っていて、メガネは目玉と距離があるから、その違いでこうなるのでしょうか? 真相は不明です。
先週1週間ずっとかけていて、ようやく慣れました。
・・・というわけで、そろそろ、「メガネブロガー」の仲間にも入れていただこうか、という野望を持つワタクシなのでありました。(その前にまず写真撮らなきゃですね。笑)



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