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民主主義=多数決、ではない

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 最近特に、国会は民主主義に則っているだの、いやきちんと手続きがなされているから民主主義だなどと、民主主義なる言葉が多用(濫用?)されているように思う。
 だが、多用されている割には、民主主義という概念が正しく理解された上で使用されているとは思えないような新聞記事や、国会議員らの発言を耳にする。民主主義は、いかにも難しそうに聞こえる用語ではあるが、概念自体は難しいことではない。

 小学校の学級会などで、遠足でどこに行きたいのかをクラス全体で決めるときにも、この民主主義に則って決められていくのが普通だ。この例では、先生が生徒に発言させることなく、行き先を決めることは民主主義に反する。小学生に聞けば、民主主義という言葉は知らなくとも、こうした決め方があまり好ましいものではない理由が分かるだろう。特に先生の行き先に不満を持つ場合には。
 では、多数決で行き先を決めたら民主主義に反しないのであろうか。みんなの意見のうち多数の者が行きたい場所に行くのだから問題ないのだろうか。

 答えは、「反する」である。

 なぜなら、このように多数決で決めた場所は、まだ多数派の行きたい場所であると確定していないからだ。多数決では確かに動物園とする票が多数を占めた。しかし、少数派の植物園という案はまだ吟味されていないのだ。ひょっとすれば、植物園という案が多数派を占める可能性もあるかもしれない。だが、植物園という案が多数派を占めるためには、意見交換が必要だ。それも十分に。
 植物園に行きたい者の一人が、大変植物園に詳しい者で、遠足に行く時期には大変珍しい植物展示がなされると主張したらどうだろうか。あるいは動物園の名物であるパンダは今病気で見ることができないと指摘したらどうだろうか。ひょっとすれば、多数決の結果は逆転するかもしれないのだ。こうして少数派である案が多数派に取って代わることが可能である制度が、民主主義である。もっとも、最終的に多数派を占めた案が、間違いであることもある。だが、少数派との十分な意見交換の後に行われた多数決で決められたのであれば、それは仕方がないことだ。ただ、少なくとも少数派の案よりはマシだったのだ。

 このように、多数派と少数派とが十分な意見交換をし、場合によっては少数派が多数を形成しうる環境の下で、はじめて民主主義が有効に機能する。逆に意見交換もそこそこに多数決をしても、民主主義とは呼べないものになってしまう。日本の国会はどうであろうか。未来を決める重要な審議が短時間で片付けられてはいないだろうか。

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