被災者たちから聞いてきたこと。救助した人に人工呼吸をしようとしたそうですが、口からは水ではなくガレキが大量に出てきたそうです。
おはようございます。
今朝は、「震災特別休暇」を利用して岩手県の山田町に行ってきた弊社内の加藤のレポートを引用させてもらいます。
福島の原発ばかりに目が向いてしまいますが、被災地の復興はまだ道のりが遠いいのだということが分かります。
以下引用==>
■岩手県山田町・大槌町・釜石市に行って 2011年4月18日~21日
知っている、見慣れた町に行ったはずなのですが、見慣れない光景が広がっていました。
しかし、ほんの少しの差で、見慣れた光景が残っていることも事実です。
本来は見えない場所から見えている建物があったり『ここからここまでが、こんなに近かったのか?』と錯覚するほど、密集していた家が無くなっていました。
他の地域の様子は分かりませんが、今回自分が目にしてきた、山田町・大槌町・釜石市では、個人ボランティアが役に立つような事は、ほとんど無いと感じました。
今回見かけた町外の人は、赤十字関連の方たち、自衛隊、NTT、電力会社等の人たちでした。
印象的だった事があります。
- 植物は元気に芽を出し、花を咲かせていた事。
- 釜石市内の被害に遭っていない地域の国道沿いのお店に「自衛隊・ボランティアのみなさん、ありがとう!」 という内容の手書きの張り紙がしてあった事。
- 避難所などで会った親戚や知り合いに「遠いのに会いに来てくれてありがとう」と言われた事。
- 祖母の隣に住んでいる人に避難所で会った際、祖母に言った「田の浜(祖母の住んでいる部落)で、また、会うべぇね!」という言葉。
みんな、色々な恐怖や悲しみを体験し、不安があるなか、他の人たちに気を使うことができるという状況に、心を打たれました。
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被災者の話を聞いてきました。キツイ話もあるかと思いますが、事実をお伝えします。
*祖母宅近くの人たちの話
- 震災当日、30代から50代くらいの人たちは、70代以上の高齢者を両脇に抱えるようにして避難したそうです。
- 祖母は、家に物を取りに行くと言ったそうですが、「金が大事か?命が大事か?」と言われ、みんなに引っ張られ家に戻ることを止められ避難したそうです。しかし、かなりの煙を浴びたようで、一関に行った後、1週間くらいは髪を洗っても匂いがとれなかったそうです。
- 高齢者は、自衛隊のヘリに乗り避難したそうですが、30代から50代くらいの人たちは残され、その後、火事の煙や強い風の影響でヘリが着陸できず、自分たちでガレキや死体をかきわけ、比較的町の方へ出たそうで、避難所に行けたのは、震災発生から4日経っていたそうです。その間、火事の煙がひどく、どこで息をすればいいのかわからない状態だったそうです。
- 町の方へ出ようとした際に、知り合いの死体を見つけたそうですが、その後避難所へ行き、「この人はどうなった?」と聞かれ、死体を確認してきているけれど、言えなかったそうです。
- 田の浜地区の上の方まで津波が来たようで、建物は流されず無事だった場所で、溺れ死んだ方がいたそうです。
- 到達した波と戻る波が建物でせき止められ、渦を巻いていたそうです。
- 第1波で、無事だった場所も2波で全滅したそうです。1波到達後、家に戻った方たちが2波で流されてしまったそうです。2波の方が、ガレキも含んだ波だったため、威力が大きかったそうです。
- 親戚で10人以上亡くなり、その中には家族全員亡くなってしまった方たちもいたそうです。
- 家の1Fまでガレキ混ざりの津波がきて、家の中で溺れそうになり、必死に2Fへ行き、避難出来たそうですが、避難所に行っても、お風呂に入れないため、潮と土で頭が痛かゆい状態だったそうです。
*現在も避難所にいる人の話
- 避難所に残っている人たちは、ずいぶん少なくなったそうで、現在は救援物資が余るほど配給されるそうです。
- 自衛隊によるお風呂もでき、毎日お風呂に入れるようになったそうです。
- 山田町は、仮設住宅を建てる場所がなく、現在避難所にいる人たちは、いつまで避難所生活が続くのか予想もつかないそうです。
- ほとんどの方は、家が無事だった親戚の家などに行っているそうです。家が無事で住める状態でも、近所に誰も住んでいない状態なので、避難所にいるという人もいました。
- 避難所に避難している人たちが協力し合い、炊き出しを行ったり、洗濯をしたりしているそうです。
→祖母は、避難所にいる知り合いに「戻ってきな」と誘われていました。
*避難所の様子(山田高校)
- 校庭は、自衛隊やボランティアの車でうまり、自衛隊によるお風呂や、仮設トイレが設置されていました。
- 校舎の改修工事も行われていました。
- auの移動基地局車、SoftBankのアンテナ(基地局代わり)が設置されていました。
→docomoは復旧が進んでいるようで、仮のアンテナ等の設置はありませんでした。
*母の知り合いの方の話
- 救助した人に人工呼吸をしようとしたそうですが、口からは水ではなくガレキが大量に出てきたそうです。
- 山田町内の火災は、家が流された後に発生したため、家が無事だった高台の人たちや避難所にいる人たちは、本来は自転車で10分くらいの距離ですが、すぐ近くに感じ、ここまで火が来るのではないかと怖かったそうです。
- 一晩明けて、町を見たら、何も無くなっていた光景に愕然としたそうです。
- 最初は、知り合いが死んだという話を聞くたびに、涙が出ていたそうですが、そのうち、涙も出なくなったそうです。
*役場の様子
- り災証明書など色々な手続きをする人たちで、ほとんどの窓口に列が出来ていました。
→祖母が手続きをしましたが、証明書が発行されるまで2週間程かかると言われました。 - docomoは、被災者に対し、端末本体を無料で提供しているようで、家を無くし、連絡手段が無くなり携帯を買い求める人たちで列が出来ていました。
- 役場は、水道・電気は通っており、トイレも普通に使用できる状態でした。しかし、町のいたるところに、仮設トイレが設置されていました。
*釜石の伯父の話
- 震災後、線路を歩いて色々な場所に行ったそうです。知り合いとすれ違うと、お互いの無事を確認出来ただけで十分という状態だったそうです。「この人はどうなった?」「家族は無事か?」という言葉を交わすことすらできなかったそうです。
- 最初は、「この人が死んだ」という話を聞くと、悲しくなったそうですが、そのうち、その会話が日常になっていき、感情が無くなったそうです。
- 現在市役所関連の仕事をしていますが、職員の中には、避難所から通勤している人や、家族を亡くした人などが多いそうです。それでも、市の仕事を行わなければいけない状態にあるようです。
==以下写真集==
■山田町
□老人福祉施設かろ
□養護施設はまなす学園
- 山田湾と船越湾が津波により繋がってしまい、かなりの被害がでました。
- 左の写真の右側、少し高くなっている場所に2階建ての建物がありますが、その手前には家が1軒あったそうです。
- 右の写真は、元々、避難所に指定されている場所で、一度は、かろとはまなす学園の入居者、職員全員が避難したそうです。しかし、そこも危ないということで、さらに上にあるキャンプ場に避難したそうですが、2次避難中に亡くなられた方がたくさんいたそうです。かろに勤めていたおばさんは、そこで見つかったそうです。
□陸中山田駅
- 津波の被害もあったようですが、駅の3軒ほど隣にあるガソリンスタンドが爆発し、火災が発生したそうです。
- 一番左の写真は2005年にホームから撮影したものです。ホーム先に見える町並みも火事で一番右の写真のように更地になりました。
□役場付近
- 役場は多少高台にあります。そこから下は、住宅が密集していました。流されて、火災が発生したそうです。
□商店街
- 全滅でした。
- 鉄筋コンクリート建ての建物は外観は残っていますが、中身はありません。
- 防波堤も、扉は閉められたままの状態になっています。
□織笠大橋付近
- 旧織笠大橋は流されてしまいました。
- 鮭の孵化場があるきれいな川の付近は孵化場含め全滅です。
- ガソリンスタンドやパチンコ屋の外観は残っていますが、こちらも中身はありません。
□船越地区
- 防波堤が見るも無残な状況でした。
- 「長根さん宅(左)」「長根水産加工場(右)」は、鮭フレークを作っていた知り合いの家です。
- 更地のように見えますが、大きなお寺とお地蔵さまが10体くらいと池、鐘もありました。
- 「船越小学校」は、小学生は最初校舎の2階に避難したそうですが、危ないという事で、さらに上に避難し、無事だったそうです。しかし、小学校の石垣の上で津波を見ていた人たちは、流されたそうです。
- 「船越駅」線路を境に国道側と海側で景色が違っていました。
- 広い敷地(駐車場など)に撤去されたガレキが集められ、山になっていました。今後、このガレキをどうするのかも問題のようです。
□田の浜地区
- 祖母宅がある部落です。
- 町の半分は津波で流され、上の方は火災で一部が無くなりました。
- 左の写真は2010年に電車から撮影したものです。何となくわかるかと思いますが、右の写真では灯台が流されています。
- 漁協付近です。一番右の写真では防波堤の上に船が乗っているのがわかると思います。右から2番目の写真のように、防波堤も見るも無残に壊されています。
□祖母宅
- 火事で全焼しました。
- 震災2週間後と今回を比べると、庭の花が咲いている様子がわかると思います。現在も、ガレキの撤去作業が続いていました。 。
- 一番右の写真には、焼けてしまった冷蔵庫(中心より少し左の長方形の物)が映っています。
■大槌町
- 国道沿いは、比較的撤去が進んでいましたが、町中は、ほとんど手つかずの状態でした。
- 奥に写っている土台は、線路があった橋です。線路自体は、手前に映っている橋に引っかかるような状態でした。ここの橋は、震災直後、ガレキと共に死体が引っかかっている状態だったそうです。
- 恐らくこの辺に駅があったであろう場所です。全くわかりません。
■釜石市
- 津波の発生した様子、翌日の様子の写真を伯父からもらいました。写真は津波発生時の釜石港の様子です。
- 「鵜住居地区(一番左の写真)」には、ローソンが映っています。
- 「平田地区」は、2階建ての家は、ほぼ1階が無くなり、2階部分だけが残っている家が多かったです。
- 「両石地区」は、全滅でした。写真左奥の高台に避難した人は流されたそうです。手前(写真では見えませんが)の高台に避難した人は助かったそうです。
- 「釜石駅付近(左)」は右側が海の近くで免許センターです。車が何台も止まっていて、駐車場のように見えますが、教習コースになっており、そこに止まっている車は、流されて撤去された車です。
- 「釜石駅付近(右)」を見ていただくとわかるように、満開の桜も津波の被害に遭っています。
<==以上引用終わり
まだ人手より重機が必要なところも多いようです。。
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※20110426 10:55 写真の説明が分かりづらかったので修正しました。