インド海水淡水化市場を攻略する際のポイント
数日前の報道によると、現在インドを訪問中の野田首相が本日、海水淡水化などの共同事業について発表するということなので、関連の数字や動向をまとめてみました。
■日本企業にとってのインド水市場
水は日本のインフラ輸出政策の中でも特に力が入っているセクターですが、インドの場合、日本企業が入っていってもなかなか採算が取りにくいだろうということが言えます。先日の投稿でも少し触れましたが、以下のような現実があります。
- インドでは都市人口2億8,000万人のうち、上水道の便宜を受けられるのは50%国全体で、浄水施設から出た水のうち、40〜50%は漏水ないし盗水により失われている
- 水道メーターの未設置および故障により、メーターで計量されているのは配水量の24%
- 地方議会の反対などにより水道料金を改訂できずに現在に至っている自治体も多い
- 水道事業にかかるコストのうち水道料金でカバーされているのはインド全体で20〜30%
(2009年, Asian Development Bank and Government of India, "Toolkit for Public Private Partnership in Urban Water Supply for Maharashtra"による)
簡単に言えば、水道料金の徴収がしづらく、徴収できたとしても設備投資に見合う料金水準にできるかどうかはわからないという市場環境です。こちらのWikipediaでも「1m3当たりの上水道・下水道料金が0.1米ドルであり、オペレーション・メンテナンスコストの60%しか回収できない水準だ」と記されています。回収できない分は地方自治体が税金で補填しています。
日本の消費者に請求されている水道料金は1m3当たり100円〜150円といったところでしょうか。インドで設備投資を行って1/3の水道料金を実現したとしても、0.1米ドルとは大きな開きがあり、現実的な商売にはなりません。
そこで消去法的に残るのが海水淡水化プラントの運営事業です。海水淡水化であれば、エンドユーザーから水道料金を徴収するのではなく、地方自治体の水道事業公営企業が大口で買ってくれるという事業モデルが成立します。この時、契約を結ぶ売水料金の水準が妥当であるなら採算が確保できます。
■インドの海水淡水化市場の規模
インドの潜在的な海水淡水化市場の規模を知ることのできる数字が見つかったので抜き書きします(Desalination: Debatable, Yet Full of Opportunities)。2009年時点のものです。
- インドにおける浄水の需要(年間) 9,000億m3
- インドにおいて実際に供給されている浄水(年間) 5,000億〜6,000億m3
- インドにおいて安全な水にアクセスすることができない人口 2億2,500万
- 2015年までの世界の海水淡水化市場 950億米ドル
- 中東における年間の海水淡水化市場 80億米ドル
- 世界の水処理市場(年間) 4,000億米ドル
- インドの水処理市場(年間) 10億米ドル
- 世界の水市場における海水淡水化のシェア 0.1%
出典が上がっていない数字なので取扱注意ですが、おおよその規模感はわかります。インドで海水淡水化市場が動き始めれば、少なくとも年間10億ドル程度の大きさになるのではないでしょうか。
ご参考:Pike Research:2016年までの海水淡水化投資は878億ドル
■インドで海水淡水化を必要としている地域
インドでは気候変動によって降水パターンが変化しており、2009年5月に世界銀行が刊行したレポート"Climate Change Impacts in Drought-and Flood-Affected Areas: Case Studies in India"(気候変動が渇水および洪水の影響を受けやすい地域に及ぼす影響:インド国ケーススタディ)によると、インド東岸のアンドラプラデシュ州(人口846万、州都ハイデラバード)とマハラシュトラ州(人口1,123万、州都ムンバイ)の2州が渇水の影響を受けやすい要注意地域となっています。
アンドラプラデシュ州の南に隣接するタミルナドゥ州(人口721万、州都チェンナイ)でも渇水がひどく、チェンナイ(人口468万)では2003年から2004年にかけて貯水池が干上がり、上水道供給サービスができなくなって給水車によってしのいだと伝えられています(Case Study of Chennai, India)。その後、チェンナイでは南アジア最大の海水淡水化プラント(造水量10万m3/日)が操業し、水不足が解消しました。
これらの州の諸都市は潜在的に水不足を抱えていると推測され、海水淡水化のニーズが大きいのではないかと思われます。チェンナイでは間もなく造水量10万m3/日の2つめのプラントが完成するほか、造水量20万m3/日の3つ目のプラントが計画されています。インド最大の都市ムンバイでも複数の海水淡水化プラントが検討されていますが、こちらはコストの問題があって進捗がストップしています。自動車産業の集積があるチェンナイの場合は海水淡水化のコストを吸収できる産業顧客が多いのに対し、ムンバイの場合はほとんどがコンシューマであり、コストを顧客に転嫁できないという事情があるそうです。
これらの地域以外にマハラシュトラ州の北に隣接するグジャラート州(人口600万、州都ガンディナガル、最大都市はアーメダバード)でも需要があるという指摘があります(Desalination: Debatable, Yet Full of Opportunities)。
■現地で受入可能な「単価」
さて、こうした潜在需要を抱えた諸都市で日本企業が海水淡水化プラント運営事業(プラント建設+設備納入+長期運営)を行って実際に採算が取れるかどうかは、売水の価格水準によると思います。参考になる数字がいくつか見つかったのでメモします。米ドルに統一しています。
●チェンナイの海水淡水化プラントを受注したインドのインフラエンジニアリング会社IVRCLとスペイン水大手Befesaによる特別目的会社Chennai Water Desalinationがチェンナイ市水道公社に請求している料金
92米セント/m3(現時点のレートで71.75円、48.74ルピー)
*チェンナイ海水淡水化事例の詳細は私が書いたこちらの記事を参照。
●インドにおける海水淡水化のコストを論じている記事にある、Narmada川から約400km離れたKutch districtに運んだ浄水のコスト
68米セント/m3(同52.99円、36ルピー)
●同記事でグジャラート州の水当局担当者が「海水淡水化は高い」と主張した際の海水淡水化のコスト
79米セント/m3(同61.82円、42ルピー)
●ムンバイの海水淡水化プロジェクトにおいて、ムンバイ政府当局者が「ムンバイで見積もった海水淡水化のコストは高い」と主張した際のコスト
1.31米ドル/m3(同102円、70ルピー)
●世界でもっとも安い水準とされているシンガポールのTuas海水淡水化プラントによるコスト
49米セント/m3(同38円、26ルピー)
●2009年にNew York Timesで報道された世界でもっとも安い水準にあるというイスラエルの海水淡水化プラントによるコスト
52.7米セント/m3(同41円、28ルピー)
●2006年刊行の世界の海水淡水化の状況をレポートした報告書の中で言及されている中東の海水淡水化コスト(多段フラッシュ方式によるもの)
50〜60米セント/m3(同39〜46円、27〜32ルピー)
これらから、インドの海水淡水化は、先行事例ではm3当たり90米セント前後で成立していますが、地方政府当局者は75米セント前後を期待していると言うことができると思います。
また、ベンチマークという意味では、世界の先端事例では50米セント前後を実現しています。50米セント台が実現できれば、上記記事で400kmもの距離を運んだ浄水のコストが68米セントとされているので、十分すぎるぐらい競争力を持ちます。
なお、ムンバイの見積が1.31米ドルときわめて高いのは、巨大都市ならではの用地取得費の高さに加えて、ムンバイが面する海では汚染がひどく、汚染物質の除去に上乗せのコストがかかるからだと、ある記事が指摘していました。
■日本企業がインドの市場を獲得するには
日本企業が作る海水淡水化プラントと日本製の逆浸透膜によってこうした単価が実現できるのかどうか、今の私は数字を持っていません。
半年前ぐらいに書いたチェンナイの海水淡水化事例の記事について、一度、ある水関係の方から問い合わせをいただいたことがあります。その方は、「48.74ルピー/m3(92米セント、71.75円)という価格水準がどうしても納得できない。どのように計算してみてもこれでは赤字になる」ということをおっしゃっていました。こちらはチェンナイ事例がどのようにしてその水準を実現しているのか詳細な事実を持たないため、「資料ではそのように記載されている」と伝えるほかなかったですが。
色々な要素を勘案すると、今のままではオールジャパンでインドに海水淡水化プラントを作っても、現地で要請されているような単価を実現するのは難しいのではないかと思います。インド市場に合ったプラントの仕様、インド市場に合った低価格の逆浸透膜を用意することによって初めて、大きな可能性を持つインドの海水淡水化市場が獲得できるのではないでしょうか?
幸いに、インド国内でも、海水淡水化プラントを手がける企業はいくつかあるようですし、逆浸透膜を製造している企業もあります(将来の市場は巨大ですからインド国内勢も着々と準備を進めています)。当面は、そうした企業を、買収とは言わないまでも提携をして、それらの企業の製品を要所要所に投入するアプローチが現実的ではないかと考えます。住友商事がインドの水テクノロジー企業と提携したという先行事例もあります。買収・提携の対象になりうる水関連の企業はスペインにたくさんありますし、中東にもいくつかありそうです。
そうしたところから「現地仕様で作るノウハウ」を得て、将来的には家電業界や自動車業界が取り組んでいるように、現地で設計、現地で生産という体制を取るのがよいのではないでしょうか。
海水淡水化の世界市場はインドに限らず、中国でも大きなポテンシャルがありますし、中東では産油国以外はまだ手つかずです。これから立ち上がる大きな世界市場でシェアを取るという考えに立てば、現地で設計、現地で生産という体制が賢明な方策ということになると思います。
日本国内での製造が仮になくなったとしても、インフラビジネスそのものが本来は特別目的会社による配当収入を収益源とするビジネスですから、配当という形で大きな実りを刈り取ればよいわけです。これは他のインフラ分野にも言えることです。