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創造的な仕事にはナルシシズムが必須、あるいはキモいカミングアウト

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仕事を「会社や上司から命じられてこなす仕事」と「自分でやることを決める仕事」に大別してみよう。

20代のころは前者の質が問われる。受験勉強は本質的に前者の色合いが強いので、偏差値の高い大学に入学した人は前者が得意な確率が高い。
だがキャリアを積み重ねると、徐々に後者がその人の価値を決める。全くやらない人から、後者で良い仕事をして皆の役に立つ人まで、ものすごく幅がある。
今回は後者を仮に「創造的な仕事」と呼ぼう。

僕がやっている本を書くことなんかは典型だ。でも組織のリーダーともなれば、創造的な仕事の機会は、普段の仕事の中にたくさん潜んでいる。例えば、
・効率向上のために、毎年のルーティン業務の手順を変えてみる
・部下を育成するために役割をチェンジする
・新しい市場を開拓する(もっと些細な例としては、新規顧客開拓も)
・新しい人事施策を立案する
などなど。

これら創造的な仕事には、以下のような特徴がある。
・自発的に始める
・実施中も完成も自分が管理監督者
・つまり自分がオーナーシップを握っている
・特に品質管理(これでヨシ!を決めること)は自分

分かりやすいのでこれも本の執筆を例に取ると、(少なくとも僕の場合は)どんな本をいつ書き始めるか、いつまでに書き終えるか、どのテーマにするか、どこまで品質が上がれば出版社に原稿を渡すか・・などは自分以外に誰も決めてくれない。
つまり圧倒的に、「自分」がどうするかを決めるのだ。
先に上げた業務改革や新市場の開拓なんかも、上司から方針を示される場合もあるが、「何にどこまで踏み込むか?」は当事者でなければ判断できないことが多く、結局は「あなたはどうしたいの?」の色合いが強い。
(たくさんの新規事業を作ってきたリクルートでこの問いかけが頻発されるのはこういう理由だろう)

サラリーマンのなかには"自分のオピニオン"を全く持たずに仕事をしている人もいるので、そういう人は創造的な仕事とは無縁だ。別な星に住んでいる・・。


で、実はここまでは長い前置き。
今日言いたいことは、
・この手の創造的な仕事を生き生きとしている人の多くは、自分の仕事っぷりや成果物を大好きな人が多い
・もしかしたら、創造的な仕事をうまくやるためには、ある種のナルシシズムが必要なのでは?
ということだ。

そう考えたきっかけは、こんなツイートを見かけたからだ。

よく本を読んでいる学生ほど「自分の文章の稚拙さに耐えられなくなり卒論が進まない」現象がおきがちらしい


僕は大学生の時に良く本を読む学生の上位3%には入っていたと思う。そして卒論も誰よりもガチで書いたが、文章に悩んだことは全くなかった。むしろ自分が書いた文章を気に入っていた(内容にはすごく自信があり、内容以外の文章表現については、単に個人的に好きだった)。
なのでこの人が言っている「読書好きだからこそ、自分の文章に耐えられない」とは真逆だ。でも実際にたくさん卒論指導をしてきた人がこう言っているのだから、傾向としてはそういう人が多いのだろう。

僕自身は社会人になった今ではハッキリ「自分は文章ナルシストなのだ」と自覚している。
自分の文章って、自分が心地よく読めるようにチューニングされている訳です。リズムも言葉遣いも。そんなの好きに決まっている。
過去のブログとか本(のコラムパート)もよく読み返す。仕事ではなく、単に気持ちいいから。ギリシャ神話に出てくるナルキッソス少年が、水面に映る自らの姿に恋をしていたのと同じだ。今も一回書き終えたこの文章を夢中で読み返していたら料理を焦がしてしまった。

もし心地よくなければ、心地よく読めるようになるまで直せばいい。難しいことを言おうとしている時はチューニングに結構苦戦する。でも最後には「良いね、これ」となる。そうなるまで出版社に原稿を渡さない。

「自分で自分の書いたものが好き」という話であって、すべてのナルシシズムと同じく、それが客観的にレベルが高いかどうかはどうでもいい。僕の文章だってプロのライターやら作家から見ればレベルは高くないだろうが、知ったことではない。僕という読者1人が喜びさえすれば良いのだ。

ちなみに僕がナルシシズムを感じるのは文章だけだ。
例えば僕の声は良く通るので、たまに声を褒めてくれる人が現れる。でも講演録画などで自分の声を聴くのは耐え難い苦行である。自分で嫌いだから。
顔にいたっては・・「顔じゃないことで勝負しよう」と初めて考えたのが小学校3年生の時だから、筋金入りだ。

それで、だ。
今では自分が文章ナルシストであることを認識しているのだが、それだけでなく、「自分に書く才能が幾分かあるとしたら、それは文章ナルシストであること」とまで思っている。
自分の文章が好き。だから良い文章になるまで何度でも読み返し、ちょこちょこ書き直すのが苦痛ではない。ほぼ趣味。
たまにネットで「校正のために自分の文章を読み返すのが苦行」と書いてる人を見かけるが、大変そうですね。僕がYoutuberになったら編集のために自分の声を聞き返すのが苦行だろうから、それと同じかもしれない。

リンクを貼った「読書家は卒論が進みにくい」も、「自分の文章を好きではない。でも読書をしていて審美眼だけが高くなり、それとのギャップで苦しむ」という現象だろう。気の毒だとは思うが、こんな感じで書かれた卒論に、僕の卒論が質で負ける訳がない(まあ論文で大事なのは内容であって、文章は二の次だが、それでも・・)。

あと自分の成果を好きじゃないと「発表できない」という深刻な病をもたらす。
アマチュア作家にも「いや、まだこれは完成していない」だの「もっとこれを書かないと」とかいって延々と出版しない人がいる(出版社がOKしてくれないのではなく、自分がOKしない)。
でも「今時点での自分のベスト」を発表し続けるしかないのだ。その後学んだことについては、また別の本にすればいい。そのためには自分の作品を肯定できた方が良い。


例として僕自身の文章ナルシシズムについてカミングアウトしてきた(キモくてすまん)。
でもこれは僕だけに限らないし、文章だけに限った話でもない。
複業として芸術家をやっている同僚がいるのだが、彼女はしょっちゅうSNSで自分の作品について「この色合いが最高」「すごくかわいい作品が出来た!」とか書いている。もちろん僕も良いな、と思うのだが、彼女自身のほうが好き度が激しい。完全な芸術ナルシシズムだ。

もっと「お仕事」的な分野でもそうだ。先日ある事業の立ち上げに関わった方と飲んだ時に「こういう所にこだわった」「ココがキモだと思ったから、周囲の意見なんか聞かずにダマで貫いた」みたいな武勇伝を伺った。
本人はそうは言っていなかったが、明らかに「仕事ナルシシズム」でしたね。自分の成果や、それをやるための姿勢に強い誇りを持っている。いいね。仕事ができる人に謙遜は似合わない。

なぜ創造的な仕事にナルシシズムが必要なのか?
それは誰も命令してくれない以上、自分の成果を好きじゃないともたないからだ。
・嬉々として文章を読み返して直す
・嬉々として出来上がった作品をSNSで発表する
・周囲に反対されようと、自分のアイディアを貫く
こういうことって、好きじゃないと出来ない。少なくともずーっとは続けられない。でも創造的な仕事こそ、トライアンドエラーが死活的に重要で、そのための粘り腰こそが質を高める。
自分の成果を、まだ未熟な段階から好きでなければ、そもそも質を高められない。このブログだって2011年にアップした文章はやはり稚拙だ。でもその頃から自分の書いたものが好きだったから、徐々に質を高められた。
「質が高くなったら好きになってあげる」じゃダメなのだ。

ということで、命令されてやるのではない、自発的、創造的な仕事で質を高めるには、ナルシシズムが必要、という話でした。

なお、どうしたら自分の成果を好きになれるか?については知りません。
好きじゃないものを好きになるよりは、好きになれそうなものを創造するほうが近道な気がする。


★おまけ
いやー、今回のブログもうまく書けた!僕の文章って最高ですね!

*******お知らせ
先日、八ヶ岳二拠点生活の先輩である斎藤さんのワーキングプレイスに遊びに行ったら、
及川卓也さんがいらして、リモートワークについての座談会をしました。
斎藤さんのオルタナブログでYoutube動画が掲載されているので、
リモートワークやワーキングプレイスに興味がある方は覗いてみてください。

「リモートワークの達人」などと銘打たれていてちょっと恥ずかしい感じですが、
やり尽くしているからこそ分かるいいところや、対面仕事との使い分けなど、
中身の濃い議論をしています。
https://blogs.itmedia.co.jp/itsolutionjuku/2022/11/_8mato_3.html

ちなみに、白川はチェックしてません。
本編に書いたように、自分の声を聞くのが苦痛だから( ̄ー ̄)。

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