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合理的であるな、妥当であれ。あるいは脳みそスペックが高い人が陥る罠

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皆さんには座右の銘的なものがあるだろうか。
「石の上にも三年」「努力は人を裏切らない」みたいな言葉を支えにする人もいるだろうし、「いやむしろオレが信じるのは"筋肉は人を裏切らない"だ!」みたいなひねった人もいるだろう。
僕にも趣味の自転車からもたらされた座右の銘がある。それは「足を止めずに坂道を漕ぎ続ければ、いつか峠に着く」だ。執筆の様な、終わりが見えない、コツコツ仕事をできるようになったのは、体でこれを理解したおかげだと思う。


それとは別に、仕事をする上で心がけている座右の銘がもう一つある。それが今回のテーマ「合理的であるな、妥当であれ」だ。

これ、何を言っているか普通は分からないと思う。世の中には「ロジカルシンキングが大事」という声ばかり溢れているのに、その真逆だからだ。
これは我が師匠ワインバーグの「コンサルタントの道具箱」に登場する言葉で、師匠の多くの言葉と同じ様に、本当の意味を理解するのに時間がかかった。説明できるようになるまでには更に時間がかかった(初めてこの言葉を見てからもう15年くらい経つ)。
この記事ではそれにチャレンジしてみたい。


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まず言うまでもなく、仕事をする上で合理性は大事だ。支離滅裂なことばかりやって成果を出せる人はほとんどいない(稀にいる)。
その上で「合理的であるな、妥当であれ」は、元々合理的な人が合理的に考えすぎて、極端な、妥当ではない結論に突っ走ってしまうことを諌めた言葉だ。
コンサルタントという職業がら、「めちゃめちゃ頭がよくて、全てを理詰めで考えているような人」「こちらがうかつな(非合理な)ことを言うと、論理性で追求してくる様な人」と仕事をすることは多い。
このブログでは、そういう人(仮に合理マンと呼ぼう)が陥りがちな罠について考えていこう。
ちなみに僕自身はこの点について、両方の感覚を持っている。
一つは論理弱者としての立場。論理力おばけみたいな人が周りにいるので、自分の論理力にあまり自信がない。そういう脳のCPUスペックが高い人へのコンプレックスがある。
一方で、慣れた世界では論理強者的な振る舞いをしている自分に気づくこともあり、「合理的であるな、妥当であれ」が座右の銘なのは、気をつけないと合理マンになってしまう危険を感じているからだ。もちろん、これから書くことは自戒もこめている。


なぜ行き過ぎた合理性を避けるべきなのか?
それは、合理マンが過度に合理的であろうとすると、

1)数値化、言語化しにくいことをないものとみなしがち
2)理路整然ではないが、耳を傾けるべき他人の意見を聞けなくなる
3)インプットがゴミで、アウトプットもゴミ

という状況に陥りやすいからだ。


1)数値化、言語化しにくいことをないものとみなしがち
数値化言語化しにくいことを考慮するか?は、本来、合理的かどうかと無関係だ。だが合理マンはこの傾向が強い。
「数値化、言語化しにくいこと」とは、例えば人々のモヤッとした感情だ。「合理マンが言っていることに反論はできないが、なんか違う気がする」と思ったら、合理マンについていかない。人は理屈では行動しないから。
でも合理マンは「オレが言っていることは合理的なんだし、こいつは反論しないのだから、従って当然」などと思ってしまう。まあ、合理的に考えればそうなりますよね。

投資の意思決定をする際に、「まだ言語化していない組織ビジョン」みたいなふわっとしたことをどれくらい反映させるか?というケースもある。
例えばウチの会社がオフィス移転をする時に、費用対効果分析みたいな合理的なスキームでは、賃料の上昇や建築費用を全く正当化できなかった。便利な場所に引っ越してタクシー代が減っても微々たるものだ。だが「今後5年で、ウチの会社はこちらの方向にシフトするべき」という直感があったし、新しいオフィスはそれをブーストできる確信があったから投資した。
これは「数値化できない価値、言語化していないビジョンを無視せずに、一見不合理な意思決定をした事例」だったが、数年たって振り返ると、100%正しいジャッジだった。


2)理路整然ではないが、耳を傾けるべき他人の意見を聞けなくなる
合理マンにとって、ほとんどの人は「理路整然と自分の考えを述べることができない愚鈍な人々」だろう。僕だって「自分の考えくらいちゃんと説明してよ」と思うことがあるから、まあ、これは仕方ない。
でもそういう人の意見に価値がない訳ではない。その人しか知らない情報や経験もあるだろう。うまく説明できないだけで、長い時間をかけた洞察に裏打ちされた意見かもしれない。
それを説明しようとしても、スパッとした説明ではないから、合理マンは理解するために質問する。でもきちんとした説明が返ってこずにイライラする。
すると「なんだ、ちゃんとした意見じゃないんだ」「聞く価値がないんだ」と合理マンは思ってしまう。だって合理的じゃないから。

そういうやり取りを繰り返すと、合理マンにわざわざ話しかける人は減っていく。問い詰められるのは誰にとっても苦痛だから当然だ。こうして合理マンの身の回りはますます合理的なことだけになっていく。
だが実際の世の中は非合理なので、「合理的なはずなのに、うまく行かない」という状態に陥る。
この現象を防ぐために、僕は会社でずっと「モヤモヤしたことを吐き出そう」「うまく言葉にできなくても、モヤッとしていることを表明するだけでも価値がある」と言い続けている。自分でも「モヤモヤするんですよねー」と言う。
コンサルタントは「自分の考えを論理だてて説明すべし」と教育されているから、真逆のメッセージだが、これを強調しないと、大事な情報が上がってこない。

先程の例で、オフィス移転の検討中に合理マンが現れたとしたら、どうなっていただろうか?(実際にはいなかったので、移転できたのだが)
彼はきっと「投資の正当性をオレに分かるように、理路整然と説明せよ」と迫るだろう。残念ながら僕はモゴモゴとしか説明できなかった。もちろん彼は納得しない。そうして僕らは未だに豊洲のビルの一角に事務所を構える、OPENではないシケた会社のままだっただろう。


3)インプットがゴミだと解もゴミ
論理力は関数でしかない。「もし変数xが2で変数yが4ならば、答えは12だ」みたいな。だから、インプットが間違っていたらアウトプットも間違える。だが合理マンは自分の合理性に自信を持ちすぎるためか、このことに鈍感だ。
「あれ?答えが12って、どう考えてもおかしくない?もしかして変数xは2ではないのでは?」みたいなチェック機能が働きにくい。
「妥当であれ」という師匠の教えは、この「おかしくない?」という素朴な違和感を大事にしろ、自分の内なる声に敏感になれ、という意味だ。


以上3つの「合理性の誤謬」みたいなものを説明したが、実はこの3つのコンビネーションが強力で厄介だ。
数値化言語化しにくいことをモゴモゴと言うやつは、非合理なことを言う使えないやつだ

そんなヤツに耳を傾ける必要はない

インプットが貧弱になり、アウトプットも貧弱に

でもそれに疑いを持たない。なぜなら合理的な結論だから
という流れになりやすい。

「合理的であるな、妥当であれ」は、こういう状態に陥らないための教えだ。
そして、僕がカミソリではなくナタを目指しているのも同じ理由だ。頭の出来のせいでカミソリになれないのもあるが、カミソリは合理性の誤謬に陥りやすい。テストや将棋と違って世の中は完全情報ではないから。

最後に。
一方で「妥当であれ」にも大きな弱点がある。
何が妥当なのか、事後的にしか分からないことだ。妥当は目指そうとしても目指せないのだ。事前に妥当性を判断するためには、経験やセンスが必要。
だから一周まわってやはり、経験やセンスは大事。身も蓋もない。

*************新刊情報
5冊目の本「システムを作らせる技術」を書き終えました。
今は編集さんに原稿を渡して、ゲラにしてもらっているところ。
内容についてはいずれブログでも紹介すると思うけど、今回は文章以外について。
この本は「業務改革の教科書」の続編に当たる。僕が教科書を書くのは3冊めだが、いつも目指しているのは「寝なずに読める面白い教科書」だ。
内容がどんなに有益でも、つまらなすぎて読み進められない教科書が世の中には多い(例えばPMBOK)。僕は教科書であろうとも、ワクワクしながら読まないと身につかないし、結局は役に立たないと信じている。
だからダラダラと本文を続けるのではなく、コラムや事例を頻繁に挟むようにしている(単純に紹介したいエピソードが山盛り、という事情もある)。
そしてイラストをつけているのも、ややこしい話を少しでも直感的に理解して欲しいからだ。単なる飾りではなく、あくまで「理解を助けるツール」なので、著者が本当に言いたいことを深く理解していなければ書けない。今回は元同僚の今村さんにお願いしたが、彼女はこれまでもグラフィックレコーディング的に議論の可視化をにチャレンジしていたので、うってつけだった。

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