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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

ライフスタイル・エートス・無縁・アジール(デザインの話・第二話)

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ライフスタイルの再定義をテーマに友人たちとアドリブで語り合った:

高橋博之氏(activist
岩田章吾氏(architect
黒田ゆう氏(realtor


ライフスタイル・エートス

高橋:人間とは何か、社会とは何か、の再定義が必要だと感じています。ライフスタイルはそのあとかなと。

廣江:ここでライフスタイルと言っているのは、ややテレ隠し的意味もあります。人間とは何か、社会とは何か、それすなわちライフスタイル、としている。消費社会を変える契機としては、企業兵士として欲望の生産装置に組み込まれている立場からではなく、自宅に戻ったあとの消費者の立場からであれば可能ではないか、という考えもあります。僕が生活クラブのブランド再生に携わったのもそういう思いから。

大切なのは、真に実効性のある戦略はいかなるものかということです。そういう意味では、品質の良い牛乳の共同購入事業を立ち上げ、自転車で配達して回った岩根邦雄さん(生活クラブ )の地道な戦略は偉大だった。高橋さんの「食べる通信」や「ポケットマルシェ」も、その系譜に位置づけられるべきものです。

岩田:ライフ(生命の、人生の)スタイルの再定義とは、個としてのではなく、群衆としての人の在り方の再定義ということでしょうか?

なぜ人は集団になると間違ってしまうのか?個々の人は、会ってみれば、良識があり、「いい人」なのに、集団となると、なぜ?と思うような判断をしてしまう。それはなぜか?個としての人や人の精神のありかたは何千年と検討されてきたと思います。プラトンの「国家」では哲学者は一人覚醒して幻影の洞窟を去るなど、社会とのかかわりを控え、内面と対話する<観照的生活>を重視し、人と関わり、関係をつくりだす<活動的生活>を下に置くのが、いわゆる西洋的な哲学の主な傾向だったのではないでしょうか?

廣江:マーケティングを生業としてきた経験からすると、それは情報を発信することによって集団を誘導するエフォート(取り組み)なわけです。ある程度の規模のマスを相手に誘惑・洗脳する。そのために投入される広告予算は独立変数であり、従属変数が消費者の態度変容。消費者は自分で良い買い物をしたと、インスタグラムなどで自慢するのが好きですが、客観視すれば、それは誘惑・洗脳されただけのハナシです。そこに「ウソから出たマコト」もあるのだが。

岩田:そうですね。その誘惑、洗脳を乱用しながら、みずからはそこからから自由になることを哲学的意味としているとするなら、それは賢人政治的なものを志向しているという事でしょうか?

廣江:そこに「自由」という概念を導入することでしょうね。自由とは、まずは全ては誘惑・洗脳だと知ること。

岩田:自由意志ですか?群衆の?みずからの意志で「あらたなライフスタイル」を選択させるのですか?

廣江:自由という概念を導入するというのは、誘惑から自由であれ!と誘惑するということになりますね。誘惑から自由であるとは、自分の意志に見えるものであっても、それが誘惑であると知ること。

黒田:日本では教育の現場で「群衆の一員たれ」と刷り込まれます。その上で「個性を尊重」とか言うから気持ち悪い。自己を獲得している人がいると、自由に見えて、羨んだりやっかんだりする。自己を獲得している子供を見つけると、周囲が本能的に攻撃して潰そうとする。群衆の一員であり、かつ、個人である、という観念的併存を許すことから始めないと。それが自由なのでは?

廣江:自由って、禁句なんですよ。だからこそ「自由であれ」と歌い続けないと。ジョン・レノンのように。ビートルズの「Come Together」のアタマで「シュッ」と聴こえるのは、実は「Shoot me!」と言っている。自由の歌はイノチガケの歌だったわけだ。そのような自由への志向も、歌に誘惑されてのことなのだけれども、まずはその「自由であれ!」というメッセージに従う。それが自由なのだ、と知る自由を知ること。

廣江:話をすこし戻すと、ライフスタイルは社会的なエートス(生活習慣)ですね。

岩田:近現代において、人はかつてないほどの他者との関係性の中で生きている。この情報爆発ならぬ「関係爆発」に対して適切なスタイルはいかなるものか?

革新的思考は、現状の状況を否定しながら、まだ見ない社会の在り方を構想するのですが、「まだ見ない」がゆえにそのイメージはアルカイックなものへと回帰するとベンヤミンが書いていますが、多くのコミュニズム的思考が原始共産制を原イメージとしたのはまさしくそれです。(岡本太郎が戦後日本で「縄文的なもの」といったのもそれかな)

ただ、これだけ多くの関係性のネットワークの中で、原始社会の「共感」をベースとした「自由・友愛・相互扶助」イメージではうまくいかないのではと思い始めています。自由と普遍を個の生という枠で考えない。という事を個で考える。ということが抽象的ですが肝要なのかと思います。

廣江:この世界においては、何についても「正しい」とは言い切れない、結局は「敵か味方か」「損か得か」だけの問題だ、というようなニヒリズムに陥っているとすれば、そこでは「自由」という概念が欠落し、カントがいうところの「傾向」だけになってしまう。

岩田:近代における人間や社会の再定義は個々のさまざまな善意や悪意による定義の雲のようなまとまりなのでは?それは言葉という媒体では捉えきれない、さまざまな人が言語化しましたが、そこからはいつも何かが溢れてしまう。

黒田:そうですね、人間関係相関図は、紙に書かれるので平面のことがほとんどなのだけど、子供の頃から、人間関係相関図は球体で表すと実体に近い気がする、と思ってました。社会構造も、本来は立体的に捉えるべきものなのだけど、平面として語られる&理解している、そこに実体との乖離が生まれていると思います。

建築家の能力の一つに、立体的な物事の理解、整理、があるよな、と思ってます。そして、アスリートも、基本的には身体感覚で世界を捉えているから、3Dの世界に生きていることが多いのかな、と。

個人の感覚、というものと、社会の捉えられ方、というものには、強い相関関係があって、これも平面的な関係ではなく、おそらくは立体的な関係なのだと思います。アートというものも、きっとその「アーティスト個人の感覚」が社会的普遍性を獲得した時に、初めて価値を持つのだろうなと。

岩田:言葉の媒体としての限界から「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」のですが、それは言葉を透明な構築物ととらえているからで、言葉は、それぞれがてんでに増築しまくっている巨大建築と考えると話は異なってきます。例えばゲームということばは多様な意味があり、定義不可能ですが、個々のゲームは定義可能でルールももあり、それは社会状況を踏まえ深化している(大リーグも大谷のような選手が出るとルールが変わる)。なので、雲のような人間や社会をとらえるのではなく、それらをうっすらとイメージしながら、個々の領域における人と人々、物、精神などのかかわりを定義していく方がいいようにもいます。

語りえないもののは語りえないのですが、それを形作っている語りうるものを語りつくすことで、語りえないものを浮かび上がらせることはできます。ドーナツの穴だけ食べることは不可能ですが、ドーナツを全部食べれば、ドーナツの穴も食べたことになりますよね。

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廣江:カントのアプローチもそういうものだと思います。経験的に把握し得るような、ここでいう「ドーナツ」的領域の限界を突き詰めた上で、その先にある普遍性へと向かう。

岩田:ウィトゲンシュタインの後期の言語ゲーム論では、その先に何かがあるとは言ってないですね。そんなものはないと。あるのは様々なゲーム間の関係性のみであると。

廣江:現代の哲学はそうですね。カントはメタフィジックスや神学論争を批判的に継承しているので、イデア論的にも見える。僕自身は、それをナンチャッテでいいので真に受けて、つまりそれを引き受けて、現実において実現してゆけばいいと思っています。

ライフスタイルを再定義すると言いましたが、それは線を引くようなイメージです。補助線とか導線とか。

岩田:その線は一本の線でしょうか?黒田さんが言っておられるように、一本だと削られるものが多いように思われます。画家や建築家が、スケッチによって様々にひかれた何本もの線の中からから一つの線をフォルムとして取り出すイメージでならすごく共感できます。

新たなライフをかたちづくる様々な補助線や導線、力線や、導火線。それらから一つの流れが立ち上がります。それを天才的クリエイターは、それらを全部含んだ、後からみればそれしかないような、一本の柔らかな線によって鮮やかに描き出すのですね。

廣江:現代社会における「マーケティング」というものも、実はそれ自体が、自由にみせかけつつ自由を見失わせるような、一種の政治的装置です。当事者意識があるにせよ無いにせよ。

僕自身は、消費者を夢の(偽りの)楽園へと誘導すると見せかけつつ、その実、本物をぶつける。というようなことをやってきたわけです。自由に見せかける、と見せかけつつ、自由を目の当たりにするよう仕向ける。TACTICS DESIGN DOHC SEDAN(仲條正義)やロードスターで手掛けたのは、そのような戦術(TACTICS)のブランディングです。

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しかし音楽や映画のクリエイティブは、本来そういうものです。ビートルズにしてもスティービー・ワンダーにしても。スティービーの「Pastime Paradise」という曲は「Pastime(慰戯、今でいう癒し)」を痛烈に批判する歌です。世の中は「癒し」ばかりが蔓延しているじゃないか。恥を知れ!と。そういう歌がメガヒットになる。ウソから出たマコト。

"Shame to anyone's lives living in a pastime paradise..."


無縁・アジール

高橋博之さんのTWより:

【人間社会の関係の変化】
狩猟採集時代→血縁関係の社会
農耕牧畜時代→地縁関係の社会
工場会社時代→職縁関係の社会

今は多くの人々が血縁も地縁も職縁も希薄化し漂流。人間が社会を作り出して数万年で人間の特徴である「縁」を失う無縁社会が出現。新しい縁を作るという歴史的意義が関係人口にはある。

岩田:かつて「無縁」というのは、再スタートのためのサンクチュアリだったのです。

廣江:網野善彦は詳しくないですが。そのような「無縁」は大事ですね。ドイツ語でいう「アジール(Asyl)」。外部/内部を問わない、開かれた受皿。一向一揆(宗教的自治)も、そのような「無縁(アジール)」的共同体であったのかもしれません。

黒田:日本人論の再考も必要ですね。勝手に先進国ぶってるけど、西洋人にとっては最果ての国。

廣江:「ポストモダン」というかつての流行り言葉もそうで、「モダニズム」ですらないところへ、あっさり持ってきてしまう。そこには日本語の構造(漢字・ひらがな・カタカナ)が作用していると柄谷行人氏は指摘しています。

日本人の「内面」についての考察:
《丸山真男は、日本ではいかなる外来思想も受けいれられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがない、と言いました。しかし、それが最も顕著なのは、このような文字使用の形態(漢字・ひらがな・カタカナ)においてです。漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念はどんなものであれ、先ず日本語に内面化されるがゆえに、ほとんど抵抗なしに受け入れられる。しかし、それらは、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、本質的に内面化されることなく、また、それに対する闘いもなく、たんに外来的なものとして脇に片づけられるわけです。》(柄谷行人「日本精神分析再考」2008年)

黒田:多用される「リスク」という外来日本語に顕著ですね。

岩田:日本では「自由」等の外来概念に漢字を当てはめることで、西欧知識の一般化が驚くべき速さで進んだといいます。

廣江:巷にあふれる「日本人論」とは違った意味で、これからの日本人の社会のあり方、すなわち定住民のあり方を考えてみる。自由かつ平等であった遊動的狩猟採集民のエートスそのものを取り戻すことは不可能である。だとすれば、現代の定住的ムラ社会において、人はどのようにして「自由」になれるか。

黒田:ひとまわりしましたね。

廣江:岩田さんの言った「無縁(アジール)」のコンセプトが重要ですね。それで思い浮かぶのが法善寺横丁。水商売の女性が自立して食っていけるよう、お寺や近隣の旦那衆がリソースを持ち寄り、居ぬきで安く借りられる飲食店街を整備した歴史があるらしい。そこには駆け込み寺的意味合いもあったのかもしれません。

岩田:一般社会の価値観とは異なる価値観を有する領域を作ることは大切だと思います。社会が均質化したら熱死ですからね。

廣江:どこかに岩田章吾設計による「法善寺横丁」をつくりたい。(正夢になることを願いつつ)

岩田:是非!


えいの里保育園 by 岩田章吾(2011年)

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