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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

Play New Purposefulness(ブランディングの話その14)

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友人たちとの対話より:

Nikeの「Play New」というキャンペーンスローガン

他動詞+名詞(新しいなにかをプレイする)と捉えることもできますが、これを自動詞+形容詞(主格補語)と読むこともできると思います。

たとえば「Go mad.」は怒り狂った状態になるという自動詞+形容詞(主格補語)の文型ですが、それと同じように「Play new.=Be new.」というニュアンスで捉える。

これは、たとえば「Think small.」や「Think different.」の場合も同様で、「differentlyに考えよう(副詞)」という意味ではなく、「differentな人になろう(形容詞)」という意味に捉えるわけです。

(ただし、もうひとつの解釈もあります。「Play New.」や「Think small.」「Think different.」の形容詞を副詞的に扱うというものです。「新しく」「小さく」「異なる流儀で」というような連用修飾にしてしまうわけです。 )

「Think small」や「Think different」の形容詞を副詞的に捉えるのではなく、主格補語として捉えるというのは、ニューヨークの広告代理店で経験を積んだハンガリー系の友人(彼の日常言語は英語)に教えてもらった読み方です。

「Play New」を単に「新たな挑戦」と訳してしまうと、収まりはイイんですが、収まりが良すぎるというか、モヤモヤした感じが残らなくなってしまう。


ブランディングにおける「Purpose」とは、遡行してゆくと、カントの「判断力批判(美学)」で語られている「合目的性(独:Zweckmäßigkeit/英:Purposefulness)」からの流れが、受け継がれているのだと思います。

カントがいうところの「目的」あるいは「目的論」とは、人間の経験(感性や悟性)では把握しきれない「物自体」というものを想定した上で、そうであるがゆえに、人間という理性的存在が生きるその「目的」、すなわち実践的な倫理性を問うわけです。

中世からの神学論争の流れを受け継いだ上での、近代的な論考ですが、あえて単純化して言ってしまえば「神がこの世を創った目的を知るべし」というハナシであり、それが「美」の本質なのだと。

(ただし「神」といっても、近代の哲学である以上、偶像崇拝は認めないので、「宇宙」と言い換えるとイイのかもしれません)

つまり、宇宙の存在そのもの、物自体そのものは、人間の五感ではその全体を知ることはできないが、そこには到達できないがゆえに、その「目的」を知るために生きるべし。それが「理性」であるのだと。

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カントは以下のようにはっきりと書いています。

《私が創造の究極目的に関して、人間はなんのために実在せねばならないのかと問う場合には、私は或る客観的な最高目的――換言すれば、最高の理性(神)が自分の営む創造のために必要とするような目的を指しているのである。》(岩波文庫 判断力批判〈下〉399)

欧米の人々は、程度の差があるにせよ、キリスト教の影響下で育った人たちなわけで、「神の意志を知る」というニュアンスはベースとして共有しているはずです。

上記のような背景を考えると、日本において「Purpose」という言葉を考える場合には、キリスト教的な目的論や自然科学の根底にある信念のようなもの、言い換えると「世界の真理は説明できる・証明できる」という文脈が存在しないので、ニュアンスが全く異なったものになってしまうのではないかと危惧されます。出来上がってくる広告そのものも、倫理的な信念の欠落したもの(ニヒリズム)にならざるを得ないのではないかと。

マーケティングやブランディングに長年携わっている立場からすると、消費者行動は、マーケティングエフォートという独立変数に対応する従属変数に過ぎません。

ということは、人間が生きている間に行なう「行動」は、消費に限らず、ほぼ全てが従属変数に過ぎない。そのことを、カントなら「傾向・傾向性」、ドゥルーズ・ガタリなら「欲望機械」というわけです。

では、自由(自らに由来する動き)はいかにして可能か。それは不可能である。しかしそれが不可能であるという認識は自由のヒントである。

カント「道徳形而上学の基礎づけ」より:
《人間は感性界に生きる者としては自然の法則にしたがう。この場合には、人間は「感性界に属する現象における物」としてふるまうのであり、「人間はみずからを感覚能力によって触発された対象として意識している」のである。この場合には人間は自然の法則に服しているものとしてみずからを意識し、行動することになる。これにたいして、人間は叡智界に生きる者としては、「みずからを、意志をもち、[何らかの出来事の]原因となりうる叡智的な存在者」とみなし、そうした者としてふるまう。》


カントが書いてることは、わかりにくい文章ではあるが、大事だと思います。つまり人間はなんのために生きているか=それには意味があるのだと、とりあえずナンチャッテでよいので信じてみる。

《私が創造の究極目的に関して、人間はなんのために実在せねばならないのかと問う場合には、私は或る客観的な最高目的――換言すれば、最高の理性(神)が自分の営む創造のために必要とするような目的を指しているのである。》(岩波文庫 判断力批判〈下〉399)

あるいは、伊藤仁斎~本居宣長につながるような「やまとごころ」。それを、ただまっすぐに称揚してしまうと嘘に染まる(やまとごころではなくなってしまう)のだが、やはり大事。

老荘思想もそうですね、老荘思想を語ると、老荘思想ではなくなってしまう。「もののあわれ」と言ったとたんに「もののあわれ」ではなくなってしまう。漢意=からごころになってしまう。

「言葉と悲劇/柄谷行人(1989)」より:
《日本的「自然(じねん)」だけではなく、世界全体が、共同体およびナルシシズムの中に自分を閉じこめていく、という状態が現在において起っていると思います。それに対して自己を、共同体の外部に出ていくという在り方において、あるいは「他者」とかかわる在り方において、問い詰めることが必要です。

われわれ日本人がたいへん好ましく思うような哲学は、かえってだめではないかと思います。別の言い方をすれば、ある種の哲学というのは、「自然(じねん)」ということを言いたいだけだと思いますね。われわれの日常的な意識、物象化された意識を超えて「自然(じねん)」に到るべきだ、ということを言いたいだけなのです。(中略)現在の哲学の特徴が出ていると思います。私は、これを徹底的に否定したいのです。》


「文学のふるさと/坂口安吾」より抜粋:

《時々芥川の家へやってくる農民作家―この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。

農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。

とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。》

ジョン・レノンの歌も、同様です。彼もたとえば「A Day In The Life」という曲において「I'd love to turn you on♪」というフレーズについて意味を説明しないけれども、不条理に満ちた退屈な日常を、ただ冷笑的に描写するのではなく、不条理に満ちた退屈な日常に絶句し(Oh boy!)そしてその後に「I'd love to turn you on♪」と歌う。

この「I'd love to turn you on♪」という一言が重要で、それがなかったら、単に、退屈で不条理に満ちた日常「A day in the life」を侮蔑的に描写しただけで終わってしまう。

退屈でバカバカしい、不条理に満ちた日常に言葉を失う。

しかし、そこでジョン・レノンは「you を on にしたい」と歌う。バカバカしいほどに不条理に満ちた、退屈な日常を、ただバカにしたり、嘆いたりしているだけでは意味ないよ、と。

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