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情報格差などがもたらす情報社会の問題について考える

内田樹先生の「情報リテラシーについて」を読んで

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内田樹先生が情報リテラシーについて大変興味深い記事を書いていたので、それについて言及したい。 ★情報リテラシーについて(内田樹の研究室) この記事では、大分私の言いたい事が内田流に上手く表現されているのを読んで心地良い気持ちになりました。 内田先生は、インターネットによる情報爆発が情報格差を生み出したと言っています。 しかし、正確にはネットに上がっている情報の範囲では格差が生じているが、それ以外の部分は、前から格差があるのだと思っている。ネットは全ての情報が掲載されているかのように錯覚しやすいが、インターネットが普及する以前の情報はアーカイブ化されていないし、暗黙知など属人的な情報はネットに載っていないことを意識すべきだと思います。

本稿では「情報の階層化」について書いたが、実際に起きているのは、「階層化」というよりはむしろ「原子化」である。人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある。

これは多いに賛成である。(端的に言うと)情報洪水の中で、自分の立ち位置、所属するコミュニティ、ひいてはアイデンティティが揮発的になっていると思われる節が多々ある。そのような状況の中で、情報を評価するための物差しや基準が曖昧になってしまい、情報を活用出来にくくなっているという状況がある。

「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力」のことをここでとりあえず「情報リテラシー」を名付けることにする。情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である。「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報のことである。

内田流の表現が非常に面白く感じました。私なりに表現すると、情報をカテゴライズしたり価値レベルを決定したりするための能力(リテラシー)というところでしょうか。手段を名詞化するところが、内田先生らしいと思いました。 ちなみに、私が所属しているNPOインフォメーションギャップバスターでは、情報リテラシーを以下のように定義しています。 情報リテラシー:情報を収集・分析・整理・発信する能力のこと。 •収集:ネットで検索したり人づてに聞いたりして情報を集める •分析:収集した情報の傾向をつかみ、 個々の内容を吟味する •整理:情報をグルーピングや構造化して、大域的に把握する •発信:整理した情報に対して自らの意見を付け加えて、他の人に分かりやすく伝える。 この一連のプロセスの基底にあるのは、まさに内田先生がおっしゃるところの「メタ認知能力」だと思います。この観点がないと収集・分析・整理・発信はなかなかうまく行かないし、役に立つ価値のある「情報の情報」を生み出す事は難しい。

情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。

情報フィルティングの明確なルール・ポリシーを持っているかどうか、その基底にあるのは情報に対する嗅覚やセンスが必要です。この嗅覚やセンスは、言い換えれば(内田流に言えば)「メタ認知能力」ですね。また、自分だけでなく、他者の活用として、こういう情報はこういう所や人から入手するといった情報源やインキュレータの集まりを形成しているかどうかということも重要ですね。

「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。

内田先生は、情報格差の解決策として、ソーシャルメディアがさらに進化したもののような場を掲げています。 個人的には、この場は、フラットな集まりではなく、場リーダーによるキュレーション、情報共有が必要だと思います。

情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。

確かにどのコミュニティ所属するかと言ったのは、集団の力関係(政治力)とかも多いに関わるであろう。でもそれだけでなく、所属する一人一人の情報リテラシーの向上も必要なのではないか。今の日本は、日本の情報リテラシー教育では、「情報を扱う一連のプロセス」や「メタ認知能力」を学ぶ場が極めて少ないのが残念である。 今回の記事をきっかけに情報リテラシー教育について議論が盛り上がっていく事を強く望みます。 内田先生の提言は続くと思われるので、次回の記事が大変楽しみです。

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