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たいやきの物語力学について

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こんにちは、みなさん、たいやき食べてますか? 食べてますね?

人と話していて、たいやきをなんとなく食べている人があまりにも多いので、筆を執りました。なーんてえらそうなことを書いていますが、ぼくも5年くらい前までは同じ状態だったので、人ごとではありません。あるとき、たいやきの完成度の高さにはっと気づいてしまったので、それ以来はあたりまえになってしまったんですが、意外と気がつきにくいことなんじゃないのか、と思ってので書いてみることにします。

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たいやきのすばらしさというのは、ものがたりがあるということです。

え、なに、ここで「戻る」ボタン押しちゃうんですか。ちょっ、ちょっと待って。最後まで読もう! まあ、いいですよ。たいやきを笑うものはたいやきに泣きますよ。隣のこどもが食べてるたいやきのカスタードクリームがスーツのズボンに垂れる呪いをかけるよ。いいの?

さて、たいやきとはものがたり、です。これは複雑な話じゃありません、たいやきそのものが持つ起承転結の構造のことなのです。

みなさん、たいやきを食べるときにどちらから食べていますか?

ぼくは頭です。これはたいやきという食べ物が、あたまから食べることでものがたりとして完結すると思っているからです。あ、また戻るボタン押してる人がいる。

たいやきの本質って何でしょう?

あんこですよね。ただ、あんこだけでは物語は成立しません。あたりまえです。あんこだけ食べたければ、赤福のおばちゃんかなんか脅してあんこだけを奪ってくればよろしい(いや、そもそも赤福だってあのヘラについて離れようとしないむやみに自己主張の激しいもち部分がなければ成立しませんよね)。しかし、たいやきであろうと赤福であろうとそれを食べようとしているとき、ひとは意識の多くの部分であんこを想起しているはずです。

本質を言えばそうです。しかし、もちろん、本質だけではたいやきは成立しないのです。たいやきがたいやきであるゆえんはその皮にあります。でなければ、ただあんこを保持するためのくだらない皮を持つ、そうですね、あのだらしない大判焼きってやつでいいはずです(ものがたりがないからぼくは大判焼きは嫌いです。難しいことを言えば、ものがたりがない、というのはものがたりですから、矛盾が生じており、そして結果的にものがたりは決してなくならないのが現実。結局のところたいやきのものがたりのほうが面白く、大判焼きは面白くない、と言うことなんですけどね)。でも、たいへん幸運なことにたいやきは大判焼きではありません。

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さて、あんこに話を戻します。あんこが物語のいちばんの本質であり、しかし、それ以外に皮が重要な要素である、ということは同意してもらえたと仮定して話を進めましょう。ここまで来たらもう最後まで読んだ方が身のためです。

たいやきを食べるとき、頭から食べることで何が起きるでしょうか? まず頭にかぶりついた人間の歯は皮の抵抗にあいます。この皮はできればあまり肉厚すぎない方が良いのですが、薄皮のたいやきであっても、頭や尾など末端に関してはあるていど皮の厚い部分が生じます。

これがたいやきの「起」なのです! たいやきはあんこと皮のコラボレーションであることは自明ですが、それを皮の主張によってまず確かめる導入部分です。おいおい、じゃあ尾からでも背中からでもいいじゃないか、という人が居るかも知れません。もちろん尾から食べることによるものがたりというのも成立しうるのです。が、やはりぼくは頭からを推したい。それの理由は後述します。いずれにせよ、たいやきをその本質(あんこ)の固まりである中心から食べることは不可能であることから、ここは自然にものがたりがはじまると思ってください。

次に「承」です。頭から食べ進んできた場合、ひとは次にいちばん「縦の長い」部分に向き合うことになります。背びれから胸びれのラインです。ここは外側に近い箇所を食べることで「皮を多く食べる」ことも中心に近い箇所を食べることで「あんこを多く食べる」ことも自由なゾーンです。ものがたりは食べ手にある程度ゆだねられます。自由でおだやかなゾーンです。食べ手ってなんだよ。

さてものがたりは結末に向かって次第に加速していきます。「転」です。たいやきはくびれに向かって少し細くなってきます。食べ手はいったん手に入れたはずの自由を次第に手放さなければならないことに気がつきます。いっぽうで、本質としてのあんこは決して途切れることがなく、あんこという食べ物の安心感に食べ手は縋り付くことになるでしょう。勢い、食べ手はあんことはなにか? 本質とは何か? そういった問いと対峙することになります。

そして「結」。ここで食べ手は尾に辿り着きます。ここでたいやきのなかで尾だけが際だって備えている物理的特徴を思い出してください。それは「カド」です。尾はたいやきの中で「カド」を多く持つ存在になります。この特性は食べる、という行為にも大きな影を落とします。かりかりとした食感が得られるのです。これは皮とあんこに続いて、たいやきに現れた第三の要素だという気づきを与えてくれます。

しかし、です。ただ意外なだけでは、だめなんです。意外なだけであれば、尻尾をプラスチックで作れば? 尻尾にニンジンをつきさしてみたら? いやいや新しい素材を入れちゃそもそもダメでしょう。じゃあ、素材はそのままで尻尾をワッフル状に編み上げてしみたら? 尻尾と見せかけてやっぱり頭を作ってみたら? それでもやっぱりダメなんです。食べたひとは「ああ、こいつは単に奇をてらってるだけである」と思うだけです。そして、現行のたいやきには巧妙にその批判を回避する仕組みが備わってます。

ここで食べ手は思い出します。このかりかりとした食感、どこかでその伏線を味わったぞ、と。そうです、それが「承」の背びれ胸びれなのです。不意打ちの驚きはありつつ、それでも、まったく未知のところからではない、という感覚、この絶妙なバランスが尾にはあるのです。ここまで読めば、「頭から食べる」ことの意味はおわかりかと思います。これを最初から尾から食べたとしたらどうでしょう? ひとはいきなりかりかりなカドと向き合うことになります。これは推理小説の犯人指摘のシーンを先に読んでしまうようなものです。ネタバレもいいとこですね。とはいえ、ぼくは、わざと先に犯人を知ってから読みたいという読者がいることを知っています。読書において読者は自由でありますし、たいやきにおいても尻尾から先に食べる自由もまた、認められるべきだと言っておきましょう。

図にまとめておきましょう。こんな感じです。

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いささか、駆け足になりすぎましたが、頭からたいやきを食べることにより立ち現れてくるものがたりについて、おわかりいただけたんじゃないでしょうか。

しかしです。これはあくまでも基本形です。世の中には基本があって、敢えてそこから外れることで面白さを出そうとするコンテンツがたくさんあります。たいやきでもそうです。この起承転結の基本形を崩そうとするたいやきはたくさんあります。羽根を大量に残したもの。魚の形をまた捨ててしまい、ほぼ円形に先祖返りしたもの。少し前に流行った白たいやき。アイスたいやき。最近だとクロワッサンたいやきなんてものまででています。この手のものを邪道や傍流と切り捨てれば、何か芯が通ってかっこよく見えるとお思いか。ぼくはそういったある種奇をてらったバリエーションであってもたいやきとして心地よく受け入れてあげたい派です。ぼくははたいやきを食べるとき、マザーテレサの顔しています(いいすぎです)

あきれるくらい長々と書いてきましたが、もちろん冗談です。ご自由に頭からでも尾からでも大判焼きでも食べちゃってください。

でもね、最後に、ひとつこの起承転結理論を裏付けるようなたいやきを紹介しておきます。五反田にあるダ・カーポという店のたいやきです。ご存じの方もいるかも知れませんが、ここのたいやきは……おっと、こんな真夜中に誰か来たようだ

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