「どこかで誰かが見てくれている」安心感とモバイル
【朝メール】20080828より__
===ほぼ毎朝エッセー===
□□希薄な連帯感
「お互いの存在を希薄に感じるだけがいい」という最近の人々の好みが顕著になってきています。インターネットはすっかり固定料金になり、携帯電話通信料金も固定化される中、つなげっぱなしで、単にその人の存在を感じていればいい、というような使い方がされてきています。
例えばチャットで相手のアカウントを登録しておけば、その存在が確認できます。その人もパソコンで同じ時間に何かをしていることが確認できるだけで安心感を覚えるのです。例えば電話料金が固定のサービスを使いながら、両方でつなぎっぱなしでテレビを見ている生活音を聞きながら、同時にいるということを感じているのがいいのです。電子メールでさえ、相手からの返事を要求するために「ウザイ」と考えられるようになってきています。
これを「希薄な連帯感」と呼びましょう。考えてみると、一緒の場所で仕事をしたり、勉強をしたり、住んだりするというのも、「希薄な連帯感」を高める上での一つの物理的工夫だったわけです。その要望は強く、産業革命後では交通機関、いわゆるモビリティが革命的に進化しました。同じ目的が達せられるのであれば、インターネットを媒体とした、そのうえで走らせるアプリケーションが「希薄な連帯感」を強めるというファンクションを担っていきます。
ビジネスにおいても、例えば研究職や現場での孤独な作業においては、このような連帯感に励まされるような効果が大いにあります。どこかで誰かが見てくれているという「希薄な連帯感」による安心感です。これをどれだけさりげなくモバイルデバイスで実現するのか、そのあたりが製品の成功・不成功の鍵を握る気がしてなりません。
★ケータイメールも知り合いとの連帯感を高めるツール。TwitterもiPhoneという乗り物を得て、この「希薄な連帯感」を実現してしまったのですね。