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メルマガ連載「ライル島の彼方」第12回 ケアラーの働きかた(2) ~感情労働で壊れないために~転載(2015/9/28 配信分)

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「ライル島の彼方」の転載です。

第12回 ケアラーの働きかた(2) ~感情労働で壊れないために~

前回からの続き)

看護や介護は、感情労働だ。介護者たちが心を痛めることなど日常茶飯事である。
だが、いくら傷つこうと、今日の生活を明日も続けるだけなのだ。
今回は、介護者の疲弊を防ぐためのサービスについて考えてみる。

■「ノン・サービス」というサービス

高齢の要介護者と、若い介護者のあいだには、ディスコミュニケーションの壁がそびえたつ。
その原因のひとつに、生育環境の違いがあるのではないか。

後期高齢者は、家父長制が残るピラミッド型の、大家族の中で育っている。
一方、若年者の多くは、きょうだいが少なく、自室のある家で育っている。家族との関係はフラットだ。

支配ー被支配の関係を受け入れてきた者と、支配に抵抗する者。
ひとりの時間が不安な者と、ひとりの時間も楽しめる者。
他者との距離感(隠れた次元)が大いに異なる。

そうした者同士が長時間接触していれば、衝突するのも無理はない、
互いに一日のうち何時間かは、同世代の者と交流をはかる必要があるだろう。

介護保険制度の施行前は、かかりつけの病院の待合が、高齢者たちのコミュニケーションの場であった。
「今日は来ていないけれど、病気かしら?」というブラック・ジョークがあったほどだ。

では、現行の介護サービスは、同世代間の自由な交流を促すシステムになっているだろうか?
デイサービスがかつての待合の役割を果たしているかといえば、(筆者の知る限り)そんなことはない。

なぜなら、病院の待合が「ノン・サービス」だったのに対し、デイサービスには「サービス」があるからだ。 設備があり、用意されたプログラムがあり、スケジュールがある。

なぜ「何かをしなければならない」のだろう?

後期高齢者たちは、授業や塾や部活動といった与えられるスケジュールには慣れていない。
パソコンも携帯デバイスもない時代に育ってきたから、情報依存もない。
彼らにとって空き時間は苦痛ではないのだ、話し、笑い、泣き、怒る、情動を尊ぶスキルを持っている。

また、高齢者の知的好奇心の個体差は、我々が想像する以上に大きい。
教育格差が大きかった時代に育っているうえ、脳血管障害や高齢鬱によって意欲が減退した人もいる。
ある個体にはリハビリにもなるプログラムも、別の個体にとっては苦痛になることがある。

同世代間交流に必要なのは、サービスを提供しない、「ノン・サービス」サービスではなかろうか。
サービスを提供するのではなく、高齢者の自立心とコミュニケーション能力に、場のカスタマイズを委ねればいい。
この方法なら個体差も吸収できる。

且座になれる畳敷きの集会場を提供する。服薬のためのミネラルウォーターとお茶の自動販売機はあった方がいい。公共交通網から漏れた地域の利用者には送迎バスを運行する。看護師と介護福祉士の2~3名が常駐して緊急事態に備える。
それだけで十分だ。

デイサービスのあり方は見直されるべきではなかろうか。

■要介護者の署名なく受けられるサービス

高齢になれば、わずかな距離を動くことすら億劫になる。身体は使いすぎたハードディスクのような状態だ。
そのうえ知り合いが相次いで亡くなれば抜け殻にもなろうというもの。自分自身の生命をつなぐことさえ億劫になってもおかしくはない(セルフネグレクト)。

挙句、入浴や着替えを拒否することがある。
また、介護認定やヘルパー派遣、ショートステイ、デイサービスについても、拒否することがある。
健康維持のためのリハビリ、生活改善のための工夫、新しい治療法も、拒否することがある。

理詰めで説得を試みても、NOがYESになることはない。
高齢者は今を生きる。目先の損得で判断する者に対し、長期的な損得は、説得材料としては弱い

ところが現在は、認知症と診断されているのでもない限り、サービスを利用するには、本人の署名と捺印が必要である。
そのため、介護者側の健康や出張などの理由から、サービスを希望したとしても、本人が首を縦に振らない限り、利用にはいたらない。

少なくない介護者が、本人の利用拒否のために疲弊している。
老老介護では、事件にいたることもある。

もし、介護者がサービス利用を希望し、主治医と担当ケアマネと第三者(社協担当者や民生委員など)が必要と認める場合、介護者の署名捺印だけでサービスを利用できるーーーそのような制度があれば、家庭の密室化によるトラブルは減り、介護者の疲労も多少は軽減するのではなかろうか。

■傾聴の負担を軽減するサービス

在宅介護、とりわけ一親等による家族介護には、集合型介護施設での介護とは違った問題がある。
それは、設備や身体介護の技術の有無ではない。
こころの問題だ。

家族間の方が、ストレスは大きい場合がある。
なぜなら、家族は、要介護者と同じ時間を過ごしてきているからだ。

認知症にいたらずとも、軽度認知障害にもなれば、記憶は抜け落ち、脱落箇所は誤った情報で穴埋めさえ、さらに脳内の無関係な記憶と結びついてしまい、尾ひれがつく(★1)。
その結果、介護者は「事実ではない」話を何度も繰り返し聞かされることになる。

体験を共有してきた者は、それが事実ではないことを知っているから、訂正したくなる。
ましてや、話の中に介護者が登場し、それが事実ではないなら、スルーし続けることは難しいだろう。

一方、他人は、何が事実かを知らない。だから、聞き流すことができる。
「事実ではない、ということを知っているかどうか」が、精神的負担に大きく影響するのである。

それでも在宅介護を推進するのであれば、要介護者の傾聴役を務める人工知能システムの提供とセットでなければならない。感情を持たない計算機なら傷つきはしないからだ。
そうでなければ、介護鬱に陥る者は増え、ネットワークのように患者は拡大していき、精神医療費は増大して、労働者人口は減る一方になるだろう。

■介護者の精神的ケアをするサービス

介護者は、家庭内の事情を知らない第三者から、的外れな言葉を浴びることがある。 その言葉は、ケアラーの精神的疲労に追い打ちをかける。

たとえば、親と同居する単身のケアラーは、事情を知らない人々から、実家にパラサイトしていると誤解され、結婚を強く勧められることがある。
さらには、子を持たぬ者として糾弾されることもある。その彼らの耳にも、独身税を叫ぶ声は届く。

介護者の「良心」に訴える声は、介護者をもっとも苦しめる。

「介護者が一日だけ訪問しなかったら、その日に孤独死した」といったレアケースを挙げることは、介護者の不安を煽る。
介護者が途中退出や欠勤の難しい職場に勤めていたとしても、介護や看護を最優先できなければ、心ない人間という太鼓判を押されることがある。
かといって、そういった声の主が、介護者の生活を保証することはない。
親孝行な者ほど良心との板挟みになる。逆に、親孝行ではない者は何を言われようと馬耳東風だ。

耳へ侵入するセカンドアビューズを防ぐことができない。だが、言葉が脳で処理される過程を変更することはできる。
記者視点、研究者視点を持って、相手に対するのである。
記者は、取材相手がどのような価値観を持つ人間であろうと、その価値観を否定しない。
また、研究者は、被験者がどのような言動をとろうと、冷静に観察する。
事実と感情を結びつけず、情報として相対するだけである。

ところが、こういった冷静さは、冷たさと誤解されることがある。その誤解に基く言葉は、介護者の精神を追い込んでしまう。

さらに、介護者は、精神論に縛られる。

介護者は慢性的な睡眠不足の状態にある(★2)。 「個体に適した」睡眠を確保できず、緊急対応のために連日緊張を強いられ、昼夜逆転の繰り返しを長年続けることがある。
限界を超えている者が、さらに頑張れと強いられるなら、共倒れ一直線である。

にもかかわらず、我が国には、苦労を耐え忍ぶことを美徳とする空気がありはしないか。
「介護で苦労するのは当たり前」ではない。
苦労を避けるための努力こそ必要である。必要なのは、甘んじての苦労、ではない。先んじての努力、である。

ホンモノの高福祉国家なら、要介護者が幸せになればなるほど介護者が不幸になるだろうか?
要介護者へのサービスだけでなく、介護者もひっくるめて幸せになれるサービスが必要だ。
たとえば、介護者の精神的ストレスを減らすための、守秘義務を伴う傾聴サービスである。

■介護者専門求人情報サービス

在宅支援制度さえあれば、介護と仕事を両立できるわけではない。
たとえば、次のように、家庭内の事情はそれぞれ違う。両立可能性は、ケースバイケースだ。

  • 小売、建築、製造、医療、運輸など、現場にいる必要がある仕事に就いている。
  • 定期的な出社や出張と、介護度調査・担当者会議・利用契約打ち合わせが重なる。
  • 複数科の受診や地理的な事情で、通院付き添いが一日がかり。
  • 仕事とプライベートを分けられない間取り。カメラやマイクにより、家庭内の様子がだだ漏れになる。
  • 家事を担っている。妊婦である。乳児や幼児、療育の必要な子がいる。
  • 要介護者に急変する持病があり、365日24時間緊急出動態勢で、顧客とのスケジュール調整が困難。
  • 認知症などがあり、常時見守りが必要。
  • 食事、排せつ、服薬支援が必要で、作業時間が細切れになる。

両立可能性は、場所や時間よりもむしろ「業務内容」による。
長時間集中しなくても、細切れの時間をつなぎ合わせれば仕上げることができ、且つ、顧客からの問合せに即時対応しなくてもいい仕事なら可能だ。

介護度や家庭内の事情にマッチングする仕事を紹介するサービスが必要であろう。

■ライフプランのコンサルティング・サービス

介護と仕事を両立できずに離職すると、学業や就活に影響がおよぶ。生涯賃金にも大きな差が生じる。

正社員だった者が退職すると、それ時以降の厚生年金の比例報酬部分や企業年金を諦めなければならない。
国民年金は満額を受給したとしても年間780,100円である。付加年金を納めても、生活は成立しない。
国民年金基金という方法もあるが、先行き不透明な社会では、ためらう人もいるのではないか。

繰り下げ受給によって金額増をはかる方法はある。だが、それには受給開始年齢まで、仕事を続ける覚悟が必要だ。ところが、年をとるにつれ、介護疲れが影を落とし始め、労働は「困難」から「不可能」になっていく。

不安要素は生活費だけではない。
独身時代に介護を始めた者は、自分の子を持つ機会を得られず、自分が高齢になった時の行政手続きに際して、保証人がいない状況に陥ることがある。
さいわい賃貸保証人については、保証会社のサービスが充実しつつあるが、入院時の保証人は難しい問題だ。緊急通報装置ひとつ取り付けるにも緊急時連絡先や保証人は必要となる。
友人同士で保証し合う方法もあるが、同じ年代の友人であると、どちらかが先に要介護となる可能性がある。

企業が健全経営のために税理士や会計士の知恵を頼むように、介護離職を考える者が、健全な人生をおくるために、ライフプラン策定を支援するサービスが必要であろう。

■要介護者との思い出づくり支援サービス

「世話をする」という点で、育児と介護は似ている。
だが、精神的な負担は、介護の方がはるかに大きい。
育児では「早く手が離れれば」と望むことは成長への「希望」であるが、介護の場合それは別離への「不安」となる(★3)。

この不安を軽くする方法はひとつしかない。できるだけ要介護者との良い思い出をつくっておくことだ。
そのための時間と費用を惜しんでいては、いずれ後悔することになるだろう。

まだまだ元気だからと安心して、仕事に注力して時間を作らないでいるうちに、高齢者の身体は変わっていく。
ハムスターにとっての一日は人間にとっての1カ月であると言われるが、同様に、高齢者の一日は若年者にとっての1カ月であるといってもいいだろう。

高齢者の歩行能力は、短期間で衰えることがある。
脳血管障害による麻痺、脊柱管狭窄、変形性質関節症、胸椎圧迫骨折などにより、歩行が困難になる。
そのような状態になった後に、思い出作りのために介護タクシーや車いすを使って頻繁に外出することは、両者にとって負担が大きい。

また、記憶力の衰えも、つるべ落としである。
たしかな事実を語ることができるあいだに、自分史を聞き書きしたり、好きな料理のレシピを聞いておくほうがよい。

写真を撮り、動画を撮り、Kinectで身体の動きを記録する。
故人の立体的な再現が可能になる日までに、できるだけ多くの情報を保存しておく。

こうした思い出作りの食事や旅行をお膳立てするサービスや、出先での終日付き添いサービス込みの介護タクシー、高齢者自身の情報を記録するITサービスは、新たなニーズを掘り起こすにちがいない。

★1 さらには、友人知人にも話す。それが事実だと思い込んだ者は、情報を拡散する。その結果、介護者は、親不幸な人間だと誤解されることもあるだろう。前回記事も参照。

★2 夢や仕事に邁進するため自らの意思で短時間睡眠を続けるのとは違い、外的要因で睡眠が妨げられると、ダメージは大きい。良い睡眠がとれなければ、いかに打たれ強い者であっても、思考力や判断力が鈍ってしまう。

★3 本稿の内容は、要介護者が毒親であったり、介護者の良心が薄い場合には、あてはまらないだろう。 介護には、ケアする側とされる側の組み合わせの数だけ、テンプレートがある。一般論では語りえない。

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