どうして他人の年齢を聞くのか
久しぶりに日本に戻って来てから1ヶ月ちょっと経っている。しかし、この一ヶ月の間に年齢を三回も聞かれた。以前、アメリカ人から日本人がよく人の年齢を聞くと聞いたことがあるだけに、なるほどと思った。
私はどちらかと言うと、それほど自分の年齢に気にするタイプではない。ただ、年齢や外貌、声などの生れ付き特徴、または出身地、出身校などの経歴によりステレオタイプされるのがあまり好きではない。今も記憶しているが、留学時代、友人(中国人)が下宿に遊びに来て、料理を作ってあげたら、東北(中国)の男性も料理作れるんだと言い出され、呆れてしまった。
最近、あるビジネス誌に次のようなことが書かれた。ある東大卒の主婦は主人の転勤で地方に引越した。そこで知り合った主婦達に出身校が聞かれたので、正直に答えたという。しかし、それから、何かほかの主婦よりうまいことをすると、東大卒だからねと言われてしまい、この東大卒の主婦は気が弱くなり、段々仲間はずれになったと書かれた。
私は三回目に年齢を聞かれたとき、心の準備があったので、相手にどうして日本人がよく年齢を聞くのだろうと話しかけた。相手が自分もよく聞かれると同感した。一回目に年齢が聞かれたのは、仕事帰りの飲み会で、プロジェクト関係の協力会社の十数人の人達(私のみ外人)がお互いに年齢を聞き合っていた。
というのは、年齢を聞くのは日本ではごく普通だ。それなら一種の文化だと言えるだろう。と言ったら、他人の年齢が分かったら、何らかのメリットがあるのだろうか。
真剣に考えてみたら、その理由は日本語の特性にあるのではないかと思うようになった。日本語には丁寧語、敬語、謙遜語というのがある。関係を深めるには相手によって、言葉遣いを練る必要がある。年齢は言葉の使い分けの基準の一つである。
話す相手が自分より年上でしたら、尊敬語を使って話さなければならない。相手が年下だったら、割と自由に言葉を使ってもよい。相手が年上か年下か知らないと、言葉使いに不安を感じ、いらいらするのではないだろうか?相手の年齢を知ることで、話はしやすくなり、ストレスも解消されるだろう。
確かに、人の経歴や特徴により人を分類すると、付き合う上で楽で効率がよい。年齢を聞く人が悪意を持っているとも思えない。しかし、ステレオタイプにより、人の個性や、個人の能力を無視してしまう危険が伴われることがある。かつて、Bill Gatesも声が細かったので、ビジネスの世界でまともに相手にされなく、悩んでいたと聞いたことがある。ただ、Bill Gatesをまともに相手にしなかった人達は後ほど大いに後悔しただろう。