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もしも洞察力があったなら……。

人を、落ち葉と呼んではいけない

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スパークするシナプスの備忘録: 

ペンは剣よりも強し。マスコミが標榜するジャーナリズムとは、権力に立ち向かう勢力として体制批判をし、健全な社会を築こうというビジョンそのものであると考えている。これはこれで一理あるが、はたして真に不変的なものかどうかは疑問だ。現代あるいは未来でも通用するか、今一度考えるべき時が来ていると思う。

ソーシャルメディアや関連のサービスの普及により、大衆は情報を発信し、コミュニケーションをする「ペン」を与えられた。その「ペン」という武器を、何ら教育や訓練やしつけを受けることなく、振り回す人たちが周囲にあふれている。いや、実践で経験し学ぶという視点からいえばそれ自体を否定することもなかろう。しかし、私たちは、情報リテラシーに欠けた層が束になると、とんでもないエネルギーになることを知り始めている。

間違った情報や言い方や解釈が伝搬すると、その伝搬者が意識していなかったとしても、相手を傷つけてしまうことがある。後の浄化作用で情報があるべき姿に是正されたとしても、傷ついてしまったことは、なかなか元に戻らないし、すぐには癒えないのだ。だから、情報の発信者、伝搬者は、慎重に、よく考えてそれを行ってほしいと思う。

個人の意見や主張は自由でよいと思う。主観とは、そういうものだ。しかし、事実は正しく捉え、出典を明記することが不可欠である。間違っても自分の意見を事実かのように見せかけてはいけないし、出典不明の伝聞を事実かのように取り扱ってもいけない。

また、言葉を発信する以上は、言葉に敏感になるべきだ。自分が鈍感だからといって他者の敏感さを軽視してはならない。むしろ、必要以上に敏感であることを心がけるくらいがちょうどいい。これは、電車内で携帯電話を使って大声で話すようなものだ。自分は気にしないからって、他人が気にすることを軽視してはならない。

しかし、同情もすべきだ。情報の受発信の仕方がわからない人は往々にしてそれがなんであるかを理解していない。(そのことについて)教育や訓練やしつけをほとんど受けていないからだ。だから、言葉の鈍感さで失敗してしまう人がいたとしても、人格についてとやかくいう必要はないと思う。一方、しっかり学んで改善をしてほしいと思うだけだ。そして教育の仕組みが今後ますます必要になってくることを予感している。

コミュニケーションは、国語や算数と同じような課目だと思う。生活に必要なことであり、よりよく生きるための知識や知恵や洞察が山ほどある。ところが、こうした勉強をする機会はめったにない。大学で専攻するか、社会人になってその分野のトレーニングを受けるかなど、かなり遅れて学ぶことになる。

では、もっと早い段階で学ぶことはできないのだろうか。高校?いや、小学校の教育に取り入れる必要を検討してはどうだろうか。

デジタルネイティブの次世代クラスターはソーシャルネイティブというそうだ。生まれながらにしてソーシャルメディアがある世代。オープンにコミュニケーションをして世界中の人たちとつながりあうのが当たり前の世代は何をどう考えて成長するのだろうか。大人がコミュニケーションを体系だてて教育をしていく必要はないだろうか。人を思いやり、正しい言葉の使い方を教える必要はないだろうか。

脱線するが、高齢運転者標識、つまり、高齢者ドライバーが車に貼る標識のデザインが変わったのは記憶に新しい。今の四つ葉のクローバーをモチーフにしたデザインは、直感的に意味がわかりづらいが、旧デザインの標識を見て「落ち葉マーク」と呼んでいたひとが大勢いたことを考えれば、このデザイン変更はいたしかたがない。

人を落ち葉と呼んではならないのだ。それによって傷つく人がいることを忘れてはならない。コミュニケーションとは、わかりやすいこと以上に、"dignity"が大切であるということを私たちは知っておく必要があるだろう。

*dignityは一般的に品格と訳されるが、品格だけでなく、節度、権利、哲学、法律など、人が秩序社会で生きるための原則としてとらえていただいたほうがよい。

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