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夏目房之介の「で?」

NHK特番「100分de手塚治虫」

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http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2016special2/

 よくある手塚物番組の中では、いくつかの違う角度からの、それなりに突っ込んだ作品論を語る番組になってはいたと思う。僕も取材Vで出演しているので、録画で観た。

 例によって、ディレクターが作った脚本の文脈にそって、何時間も話させたうちから、彼の脚本に必要な部分だけを切り取って放映されていた。別に文句をいいたいわけではなく、テレビのこういった取材Vはたいていそのように作られているので、こんなものなのである。こちらも、事前に向こうのほしいポイントは伝えられていて、それを承知で仕事として引き受けている。僕の本をいろいろ読んでいる人なら、テレビで使われた部分が、どんな全体の文脈で語られるべきかはわかってもらっていると思っているので、まあそれはそれでいいのだ。

 ただ、なまじにVで出演してしまったので、番組についてさめた評価の文体でしか語れない自分がいるということなのだ。たしかに「よくある手塚物番組」にあきあきしてはいるので、その中では評価してもいい番組になっていたかもしれない。でも素直にそういいたくないなと、つい思ってしまう。もちろん、一応手塚論を書いているマンガ評論家としては、それほど新しい知見に出会ったとは、なかなかいいづらいにしてもね。

 取材のなかでは、流れで、手塚がマンガ史に新しいものを与えたとすれば何か、という話になり、そう問われれば「マンガによる重層的な物語の構築」としかいえない、というようなことを話した。取材者は「やっぱり、そこに行きますか」といっていたので、手塚論言説は一応勉強していて、そこは番組の最後にスタジオ出演者のなかで話させたかったとうことなのだろう(多分)。

 こういうことを公開の場で書くのは、一種の違反行為なのだろうか? だとしても、メディア受容者もまた、多くの人がそういう構造を知ったうえで観てほしいと僕は思っている。僕のような立場の個人が、テレビ番組の作られ方について個人的に語ってしまうことは、許容されるものと考えている。場合によっては、それが自分の身を守ることにつながるかもしれないしね。かつて、メディアにコメントを発表されたとき、僕のいっていないことが文章化されていたことがあって、そのときも同じようにブログに公表したのは、そういうことだ。

 今回は別にそんなねつ造があったわけではないし、番組自体も悪くはない。だからちょっと申し訳ない気分もあるのだけど、たまにこうして書いておくことで、テレビ番組のメディアリテラシーを考えるきっかけになれば、とも思っている(ちょっと大げさ)。もっとも、こういうことをやっていると、テレビの取材は減るのかもしれないけどね。

 しかし、そういう意味でいうと、かの「BSマンガ夜話」はたしかにそうした作り方への批評にはなっていたし、そこが面白かったのだな、ということはやっぱり思い出す。ある時期のBSだからこそできた番組だったんだろう。何しろ、脚本を作ると出演者の誰もがそれに反発して違うことをしゃべってしまうので、ふつうのNHKとは異なり脚本のほぼない生番組になったのだ。ああいう番組は作ろうと思って作れるものでもないし、時代の隙間でしか生まれなかったんじゃないかな、と今は思う。

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