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IT業界のコメントマニアが始めるブログ。いつまで続くのか?

大多数はまじめなのだから、大目に見て欲しい、というために

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(というわけで、懲りずに投稿します^_^;) なんだか誤解されている気もするのですが、私は著作権を解釈できる最大限レベルで厳しく適用すべきだと思っているわけでも、そのように主張しているわけでもありません。おそらく、そんなことをしたら、ユーザーだけでなく著作権者にとっても不都合が生じるでしょう。

私自身、テレビ番組を録画して後から見たり、CD をリッピングして携帯プレーヤーで聴くこともあります。友達が自宅に来て一緒にDVD映画を見たりすることを著作権侵害だと言ったり、デジタル放送を受信するために圧縮された映像データをメモリ上に復号することまで複製にあたるという見方には反対です。CCCD にも反対ですし、実際 CCCD のかけられた CD は買う気がしません。

前置きが長くなりましたが、今回は MiAU 発起人である津田大介氏の「いいじゃないすか多少コピーされたって。いうても大多数の日本の消費者は真面目なんだから、もうちょっと消費者信頼してくださいよ」(twitter より)という発言について考えてみます。これまで数字で検証してきたとおり、P2P による楽曲交換や動画共有サイトの不正投稿動画の視聴などは、それぞれ音楽や映像市場全体から見れば比率としては小さいものです。これは、「大多数の日本の消費者はまじめ」であることを裏付けていると思います(違法着うたサイトの利用経験者が 37% という数字は、事実ならば、けっこう大きいのですが)。

前述のとおり、なんでも取り締まるのではなく、これらの大多数のまじめな消費者が多少コピーすることくらい、いいじゃないか、と私も考えます。また、多少コピーすることくらいいいじゃないかというのが、著作権法第30条が示す私的複製なのだと思います。それなのに、「誰もが P2P で楽曲交換する時代になったのだ」とか「もう映画は無料でダウンロードできるのだ」とか「不正投稿を取り締まるのはけしからん」と“消費者”の顔をした人が主張し、そのような認識が広まったらどうなるでしょうか。権利者側は身構えてしまい、(「大多数の消費者がまじめである」という事実を忘れ)“消費者”に対して危機感を持ってしまうのではないでしょうか。権利者側を北風と太陽、消費者側を旅人に例えて「旅人に強い北風を吹き付けても、外套を脱ぐことはなく逆効果。太陽で照らすほうがよい」ということはできますが、これを逆にして考えてみたらどうでしょうか。大多数のまじめな消費者は、太陽のはずなのですから。

米国の音楽配信で DRM 廃止の動きが進んでいるのも、先行した EMI の結果が、とくに売り上げのマイナス要因になっていないからでしょう。日本でも追従してほしいと思っています。ただし、少し気になる「国民性」はあります。しばらく前に話題になっていた記事「外国人が「日本に長く居すぎてしまった」と実感するのはこんなとき」(らばQ)に挙げられていた“日本人的感覚”に、こんな項目がありました。※追記。コメント欄を参照してください。

64.本屋に雑誌を読むために行き、読むだけ読んだら棚に戻しても疑問に思わないとき
(海外の本屋は買うところで、立ち読みし放題ということがないのが普通)

本屋で「最後まで読まなきゃ、買う価値があるかどうかわからないじゃないか」と主張する人がいるかどうかわかりませんが、ネット上のコンテンツになると、そのような勢いで主張する人が見かけられるようにも感じます。結局、「法律的に立ち読みは禁止できない」というところで思考停止してしまうと、消費者は権利者からの信頼を受けられないまま、一歩先に進んでもらえない気がします。

そもそも権利者側は 「大多数のまじめな消費者が多少コピーすること」をそんなに問題視しているのでしょうか。私は、むしろ「少数のふまじめな(非)消費者が大量にコピーしていること(または誘発していること)」を問題視しているのではないかと考えます。出かける時に鍵をかけるのは、家の周りの住人の誰もが泥棒だと思っているわけではなく、ごくわずかな人が泥棒である可能性を考えるからでしょう。鍵をかけることは、“住人”を信用してないことにはなりません。住人を信用して「留守のときも庭でこどもを遊ばせていいですよ」と声を掛けてくれるような人でも、帰って庭が荒らされていたら門に鍵をかけるかもしれませんし、そのことを責められないでしょう。こどもは遊べなくなりますが。つまり、「少数のふまじめな消費者の行為」で被害を受けているのは、(権利者ばかりではなく)「大多数のまじめな消費者」であると考えられるわけです。

これも繰り返し書いていますが、動画の不正投稿や楽曲の不正頒布といった(少数による)行為が本気で「善意」なのだと主張されるのであれば、これらを実名(せめてトレーサビリティを持つ状態)で行う(ことを促す)べきでしょう。先に書いたとおり、これらが問題視されるのは、匿名の陰に隠れて責任を取ってもらえないことにあるからです。著作権というのは、事前に許諾を受けずとも、事後でも許諾を受ければ侵害とはみなされませんから、著作権者は黙認して利用しているということを信じているのであれば、何ら問題ないはずです。そうすることではじめて、堂々と「大目に見て」と言えるのではないでしょうか(もちろん、大目に見てくれる権利者ばかりでないでしょう)。

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