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必要なことは、"うまく学ぶ"ことであり、"新しいこをを新しい方法で学習する"ことである。

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2~3週間ほど前に話題になった、「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性」という資料の7ページに出てくる「L型大学(含む専修・専門学校)では、「学問」よりも、「実践力」を」というスライドを見て、自分もアタマがくらくらしました(苦笑)

ただ、同資料6ページに出てくる、

「大半の大学に、今後の雇用の圧倒的多数を占めるジョブ型雇用のおける職業訓練機能を果たさせることがこの議論の本丸 」

↑ここのジョブ型雇用に日本が向かうことは、グローバルである程度統一された人事制度をやっていこうとすれば当然こちらの方向に向かう事になるだろうと思います。

ただしジョブ型になると、スキルが無い若者は当然就職にあぶれる確率も高くなります。

最近、若者の無業社会という問題も指摘されていますが、ジョブ型社会が進み、実際の仕事に使えるスキルを持たない若者が就労しないと社会の負担は増大するばかりです。

書籍「無業社会」を読んだ方はご存じかと思いますが、厚生労働省が出している「貧困 格差、低所得者対策 ・格差、低所得者対策に関する資料」には生活保護を受給し続けた場合と就業した場合の社会保障等に与える影響について生涯のコストギャップは1億2千万~1億5千万という指摘がなされています。

このような国や社会負担の増大という観点から考えた場合、大学全入時代を見直して一部大学を専門学校化する提言にはそれなりに妥当性があるようにも見えます。

ただ自分自身の経験から考えると、大人や偉い人たちの言いつけに従ってもあまり良い結果を生まない気がしています。

自分の世代は、学生運動などをやった世代と比べれば、圧倒的に大人の言いつけに従った世代だと思います。

義務教育時代を含めた学校時代の教師や先輩との関係。社会に出てからの会社や業界独特のしきたりに従うことや理不尽な要求がいろいろありました。

それも数十年すればそれが報われるだろうと考えていたからこそという部分があった訳ですが、30年経過してみると社会の仕組みが変ってしまい、殆ど無意味だったように感じることが多かったりします。

つまり、冒頭紹介した資料に例示されている

L型大学(含む専修・専門学校)では、「学問」よりも、「実践力」を
L型大学で学ぶべき内容(例)
文学・英文学部 シェイクスピア、文学概論 ではなく 観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力
経済・経営学部 マイケル・ポーター、戦略論 簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方
法学部 憲法、刑法 道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二免許の取得
工学部 機械力学、流体力学 機械力学、流体力学

こういう手法を採用しても、社会の変革のスピードが速すぎて教育の現場は結果として役目を果たせないと思います。(個別の教育内容はあくまで例ではあるのだと思いますが)

特にまた最近機械に仕事を奪われる話しや、20年後に無くなる仕事の話題がソーシャルメディアで取り上げられている事が増えているように感じます。

ちなみにドラッカーの「断絶の時代」ではその当時から職業教育が時代遅れという指摘をしていて、こんなくだりがあります。

職業教育に関して最も悪いことは、それが"二流の人間"の訓練という考えか方に支配されていることである。進学コースへ進めない成績の悪い子どもたちを職業教育に押し込んで、学校を出る年になるまで、街頭をうろついて悪いことをさせないようにする手段として職業教育が使われている。

そして、この「断絶の時代」が出版された昭和44年時点ですら、このような指摘がなされています。

一0年ないしは一五年後にどんな知識が必要となるかは現在はわからない。今わかっているのは、これからの子どもにとって必要なのは弦愛では知られていない新しい知識なのだ。

最後に、上述のように機械が仕事を奪う時代の危険が語られています。ジョブ型社会は経験の無い若者にとっては厳しい社会であると前回のエントリでも触れました。

専門学校を卒業後、約15年のフリーランス生活と、同じく15年の会社経営から50歳を目前にして通信制大学に入学するなど仕事を続けるためのスキル開発を続けている身として感じるのは、ドラッカーの言葉を借りるならまさにこういう表現に集約できるような気がします。

必要なことは、"うまく学ぶ"ことであり、"新しいこをを新しい方法で学習する"ことである。

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