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恵まれた社会的地位が災いして一般目線を失う人達

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食材偽装の問題や融資問題でのそれぞれの金融機関の言い分、天皇陛下に手紙を渡した人や息子が逮捕されたことで引責した人の言い分それぞれにあります。

法律に違反しているなど明確な判断が可能な部分もありますが、悪意は無いとか、自分はそうは思わないというような話しになってくると個人の信念、想いの部分になってくるので唯一絶対の正解はない世界の話しなので致し方ない部分ありかと思います。

成功するためには自分の信念を貫くことが大事というような話がされることが多いですが、冒頭で紹介したような例で、責任を取りたくないだけなのか、本当にそう思っているのか外から判断しにくい事ありますが、外圧が大きくなる前にみずから責任を取る人が少なくなった気がします。

自分の経験では橋本内閣のちょっと前あたりから、要職ある人達がそれまでの通例なら責任とって辞職したようなケースでも居直りを始め、そこからズルズル、、というような印象あるのですが、これは具体的にソース示せないのであくまで印象のレベルの話しですが、、、

武士の時代のように責任取るのが切腹というのは現代ではありえないでしょうけど、明日死ぬかもしれないと思って生きるとか、頑張るというような意識の持ち方ってある意味明日切腹を申しつけられるかもしれないって覚悟で生きているのと繋がる部分がゼロじゃないような気がこの文章書きながら思いついたりしています。

冒頭に紹介したニュースについて、安岡正篤という人の「論語に学ぶ」という著書の中にイデオロギーについて触れているところで、こんなくだりがあるのですが

「かれも一理、これも一理」とか、「泥棒にも三分の理」とかいいうような諺もある。要するに理論は平行線であって、どこまでいってもそれだけではかたづかない。純粋な科学技術の研究理論でさえなかなか一致がむずかしいのですから、況んや人間、あるいは人間生活に関する思想・評価という様なものになると、正にもかれにも一理、これも一理で、なかなか決着するものではない。

自分の理解できることだけで世の中回っている訳ではないのは理解できますが、公的資金や税金面でも助けてもらっている立場を忘れてないか?とか、それまでさんざん一流ブランドは信頼の証し的な露出しておきながら実は裏腹な企業体質、、、成人した人間のやったことに親がどこまで責任持つかというのは確かにそうですが、他の人ならこうはバッシングされないという発言はあまりに尊大な気がします。

手紙の人についてはここで具体的に触れるのは無しにしておきますが、なぜかイギリス映画『クィーン』でトニー・ブレアとシェリー夫人がエリザベス2世との謁見の際に礼儀をわきまえないぞんざいな態度とったシーンを思い出しました。

それなりの社会的な地位にある人達がそこ得られる便益は受けて当然、でもそこで起きたことの責任は取らないという話しになってくると、末端のほうはどんどん白けてきそうになるのですが、そこで無関心になってしまうのが一番良くないのかもしれませんね。

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