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「渡る世間に鬼はなし」と考えるアメリカ人に対し、「人を見たら泥棒と思え」と考える日本人

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グローバル人材を育てるというようなワードを毎日のように見かけますが、逆に日本人らしさというものに明確な定義があるでしょうか?

『日本の「安心」はなぜ消えたのか』という書籍を読む機会があったのですが、そこでは戦国時代と江戸時代の社会的な違いをもとに、その時代ごとの日本らしさの違いがあることを指摘しています。

確かに言われてみると、これ以外にも仏教が伝来した時代やら、明治維新、そして先の大戦後など日本はその時代ごとに特徴を大きく変えている国というのは誰もが認めるところではと思います。

今回この書籍で注目したのは、著者の

集団主義とは「信頼」を必要としない社会である。

この主張の部分です。

一例として農村などでカギをかけずに生活できるのは何故なのか?というところから考えてみると、良くメディアなどでは、田舎はのどかで都会とは違うというような表現をすることが多いですが、都会に住んで居る人間がみな犯罪者予備軍なわけでもなく、これは農村という閉鎖的な社会においては、何かあったときに制裁を加えるメカニズムがしっかりと社会の中に作られているからだと指摘しています。

さらに、カギをかけない農村の人たちはきっと心もきれいなのだろうと考えてしまうのは、人の態度を見て、その人の心を推しはかってしまうという「帰属の基本的エラー」を起す可能性があるとしています。

つまり、集団主義社会で人々がお互いに協力しあうのはも、また、裏切りや犯罪が起きないのも「心がきれいだから」という理由などではなく、「そう生きることがトクだから」という理由に他ならないと、、、、

そして、戦後日本の高度成長時代、そこには日本型のケイレツ、下請け、護送船団方式などなど、さまざまな日本独自ルールを活用しながら奇跡的な回復を実現しました。

この日本独自の集団主義社会の中で仕事をするには、波風立てず、決められたルールを守ることで一度取引を成立させれば基本的に継続した取引が可能、そのあとはイチイチ契約を結ぶこともなく口約束でやっていける、そして業界ルールを破ると制裁を加えるメカニズムがキッチリ出来上がっているという点でもまさに同じかと。

この主張を受け入れがたい方も多いかもしれませんが、日本型の集団主義社会とは社会の仕組みそのものが人々に「安心」を提供することによって、いちいち他人を「信頼」しなくてもいいようにしてくれる社会だったのかもしれません。

とりあえず、自分はどう思うかというよりも、そこに従っていれば食べていけるということは人々の心持ちにどんな差を生むのでしょう?

この書籍の著者である山岸俊男氏は、社会学者として日本人2000人、アメリカ人1600人に対してこんな調査を行った事があるそうです。

アメリカ人はとりあえず協力的行動を取ったほうが自分もトクをするのではないかと考えるし、損をしてでも一匹狼になろうとは考えない傾向があるようで、つまり「人を見たら泥棒と思え」という日本人に対して、アメリカ人は「渡る世間に鬼はなし」という諺に近い行動をしていると著者は分析しています。

  • たいていの人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?>たいていの人は信頼できる>アメリカ人47% 日本人26%
  • 他人は、隙があればあなたを利用しようとしていると思いますか、それともそんなことは無いと思いますか?>そんなことはない>アメリカ人62% 日本人53%
  • たいていの人は他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも自分のことだけに気を配っていると思いますか?>他人の役に立とうとしている>アメリカ47% 日本19%

この他にも、調査結果としてこんな傾向も見て取れるようです。

「日本人は自分たち日本人のことを集団主義的な傾向があると考えているが、ただし『自分だけは例外』と考えている集団である」 :同著P79より

日本でベンチャーが育たないのは何故か?などのテーマはこれまでもこのブログで数回取り上げていますが、ここで見えてくる日本人の傾向は、高度成長期の仲間内で団結して結果を出せる時代には通用したけれど、よそ者と「信頼」を必要とする関係性においてはマインドセットを書き換える必要があるのが見えてきているような気がします。

今日紹介した『日本の「安心」はなぜ消えたのか』、その主張すべてに同意できないところもあるのですが、ジェイン・ジェイコブズの「市場の倫理 統治の倫理」の考え方など興味ある指摘がなされているので、今後も機会があれば取り上げたいと思います。

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