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新奇なことは、排斥されないいにしても、疑いの目でみられる

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W・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」という文書に触れる機会がありまして、こちらの文章が本来主張したいとされている話とは違ってはいるのですけれど、最近エントリ化していなかった電子書籍関連の話題として今日は書いてみたいと思います。

この「複製技術の時代における芸術作品」では、どれほど精巧につくられた複製の場合でも、芸術作品特有の一回性は完全に失われてしまうという指摘から、その考察は、複製技術によってオリジナルの模造品をオリジナルではとうてい考えられない状況のなかにおくこともできるという話から、複製によって歴史的証言力や作品の持つ権威がゆらぐ可能性があるとしています。

ここで失われていくものをアウラ(Aura:物体から発する微妙な雰囲気、もとはラテン語で「空気」の意)という概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代のなかでほろびゆくものは作品のもつアウラである、といいかえても良い。このプロセスこそまさしく現代の特徴なのだ。

このプロセスの重要性は、単なる芸術の分野をはるかに超えている。一般的にいいあらわせば、複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。複製技術は、これまでの一回かぎりの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、こうしてつくられた複製品をそれぞれ特殊な状況のものにある受け手のほうに近づけることによって一種のアクチュアリティを生みだしている。

このふたつのプロセスは伝承されてきた芸術の性格をゆさぶらずにはおかない。

これはあきらかに伝統の震撼であり、現代の危機と人間性の革新と表裏一体をなすものである。

この文章はこのあと、当時わき起こっていた大衆運動の担い手のしての映画の社会に与える影響を指摘しているのですが、今日は冒頭申し上げたように、少し無理があるのは承知でこの芸術の複製と電子書籍を置き換えてるとどんな事になるでしょう?

写本の時代から印刷された本が普及するまでの時代にもいろいろな事があったのだろうと思いますが、芸術が「ほんもの」と複製品が越えられない壁が厳然と存在しつつも、前述の2つのプロセスは歴史や伝統をゆさぶるちからがあることが示されています。

電子書籍においても紙の本の優位性など、物理的な側面で越えられない壁は同様に存在しつつも、以下のような概念の置き換えは可能な気がします。

電子化技術のすすんだ時代のなかでほろびゆくものは書籍のもつアウラであり、このプロセスこそまさしく現代の特徴なのだ。

このプロセスの重要性は、単なる出版の分野をはるかに超えている。一般的にいいあらわせば、電子化技術は、電子化の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。電子化技術は、これまでの物理的な書籍のかわりに、同一の作品を無限に出現させるし、こうしてつくられた電子書籍をそれぞれ特殊な状況のものにある受け手のほうに近づけることによって一種のアクチュアリティを生みだしている。

この2のプロセスは伝承されてきた印刷本の性格をゆさぶるもので、これはあきらかに伝統の震撼であり、現代の危機と人間性の革新と表裏一体をなすものである。

「現代の危機」の部分をどう置き換えすべきかは悩みましたが、少なくともインターネットの出現と情報の電子化がされることにより「現代の危機と人間性の革新と表裏一体をなす」ことがあり得ることは多くの方が感じている事だと思います。

電子書籍がどのように浸透してくのか雲行きあやしい部分もありますが、ベーコン随想集の中の「革新について」にこんな記述がありまして、

新しいことは、つねにある人を良くし他の人を損なう。そして得した人は、それを幸運と思い、その時代に感謝するが、害を受けた人は、それを不正と思い、実施した人のせいにする。

たしかにこういう事が電子書籍の分野においても十分考えられる訳で、この後に続く、「変化への願望が改革を主張しないよう十分気をつけることである」という一文が持つ意味を自分なりにどう解釈すべきか考えてみようと思いました。

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