2. ことわざにも色々あるけれど、「果報は寝て待て」って都合良すぎない?
私はことわざや故事成語が大好きです。これらには、先人たちの生活の知恵や教えが満載です。「石の上にも三年」なんて、よく言ったもんです。
しかし、ひとつだけ、どうにも納得できない、というか、賛成できないものがありました。それは、
果報は寝て待て
です。意味は、「幸運は人力ではどうすることもできないから、あせらないで静かに時機(時期と機会)が来るのを待て(広辞苑)」というものです。
私は、幸運でさえ、自分で努力しないと訪れることはない、と考えています。宝くじが当たるという幸運だって、宝くじを買う、という行為(努力?)をしないと、そもそも当たりませんよね。努力もしないで幸運がめぐってくるなんてありえない!ですから私は、この「果報は寝て待て」ということわざがあまり好きではありませんでした。なんて都合のいいことわざなんでしょう。これが先人の知恵、と言えるのでしょうか。むしろ「人事を尽くして天命を待つ」というほうが、理にかなっているのではないか。そう思っていたのです。
ところが最近になって、この「果報は寝て待て」の本当の意味、というのを知りました。
そもそものきっかけは、「因果応報」という言葉の意味を調べたことです。この言葉はもともと仏教用語で、「前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること(大辞泉)」です。これ、広辞苑には「過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生じること」って書いてあるんです。まぁ、なんとなく意味はわかりますよね。大辞泉のほうがわかりやすいけれど。
ひっかかったのは、広辞苑の「幸不幸の果報」という表現です。「果報」って、幸せなことを言うんじゃないの?「この果報者が!」みたいな使い方するじゃないですか。そこで調べてみたら、果報にはふたつの意味があったのですね。幸運、という意味の他に、「前世の行いのむくい(広辞苑)」という意味もあったのです。
そこで、詳しい人に訊いてみました。果報ももともとは仏教用語で、「『果』は良い結果のことで、『報』は悪い結果のこと」なんだそうです。つまり「果報」は幸運のことだけではなくて、「良い結果、悪い結果」の両方を指す言葉なんですね。
ということは、「果報は寝て待て」の本当の意味は・・・?
どうやら、「できることをやったら、あれこれ悩んだり、くよくよ考えたりせずに、結果が出るのを待て」ということらしいのです。なるほど、これだったら納得です。それがいつの間にか、「幸運は寝て待ってろ」という意味に使われるようになったようなのです。
一方、「待てば海路の日和あり」ということわざもあります。ことを焦って、大しけの中を海に漕ぎ出してもロクなことはない。待っていれば海に漕ぎ出すのにちょうどいい時機が来るから、それまで待ってろ、ということですね。こちらもただ待っているのではなく、ちょうどいい時機を見計らえ、という教えです。もっとも広辞苑には「いらだたず待っていれば早晩幸運が到来する」って書いてあるんですけどね・・・
ちょっとしたことに疑問を持って深掘りすれば、こうした新しいことが色々とわかってきます。ことばって、面白いですね。ことばは生きていますから、本来の意味とは違う意味が浸透してしまえば、ことばの意味が完全に変わってしまうことだってあるわけです。「貴様」なんてのはその典型例です。
やはり、幸運はただ寝て待っているだけでは訪れないようです。とはいえ、がむしゃらに努力してもだめ。努力して、時には休んで、時機を見計らって、結果を待て、ということですね。