意識は「高く持つ」ものか
こんにちは、竹内義晴です。
「意識が高い学生」という言葉が、いつしか聞かれるようになりました。最近、この言葉には、ネガティブなイメージがあるようですね。
学生のみなさんに限らず、社会的なことを考えるのは大事なことだし、意識が高いのはすばらしいことだと、ボクは思います。
一方、「意識が高い」について思うこともあって、意識とは「高く持つ」ものではなく、結果論――つまり、なんらかの結果、そうなる――ものなんじゃないかと思っています。
私の周りには、社会的に意義ある活動をされている方や経営者がいます。私の目から見て、彼らはとても意識が高く感じますが、彼らが「意識を高く持とう」としているかというと、そうではなく、「結果的に、意識が高くなっていた」ようなのです。
「結果的に」というのは何かというと、たとえば、彼らの多くは・・・
- 恵まれた環境になく、それを乗り越えなければならなかった
- 生まれながらにして、周囲の「当たり前」に違和感を抱いていた
- 病気になった
- 仕事で苦労して、それを何とかしようとしていた
- 独立したが、全然軌道にのらなくてもがいていた
- 目の前に「このままでいいのかなぁ」と疑問を持つことがあった
などの課題を持っていました。そして、
- いい環境ではないので何とかしようと行動した
- その結果、「なるほど、○○をよくするためには、○○が大事なんだな」と気付いた
- その結果、「もっと○○したい」と思うようになった
身の回りにさまざまな課題があり、それをなんとかしたいと行動した結果、さまざまな気づきを経て、「もっとよくしたい」「人の役に立ちたい」と思うようになったようなのです。
つまり、最初から
- 人の役に立とう
- 世の中にいいことをしよう
- お金ではなく、社会貢献のほうが大事だ
などとは思っていたわけではなく、「結果的にそうなった」のです。
実際ボクも、今は「仕事を楽しくしたい」とか「地域活性化」とかなんとか言っていますけど、若いころなんて何も考えていなかったし、地域のことはあまり関わりたくないと思っていました。
ではなぜ、今のように考えるようになってきたかというと、仕事で嫌な体験(プレッシャーやストレス)をしたこと、それをなんとかしたかったこと。年齢を重ねてきて、なんとなく地域に愛着が出てきたことや、地元のお店がなくなり活気がなくなっている現状に「このままでいいのかな?」と思ったことなどがあげられます。
「意識を高く持つ」のはすばらしいことです。でも、「意識を高く持つ」ために何かをするのは本末転倒な感じがするのです。
たくさん仕事をして、たくさん失敗して、失恋して、周りの人と喧々諤々やって・・・そういう、日常が大事なんじゃないかなって思うし、日常の経験が、自然と「意識を高く」してくれるんじゃないかなぁ。実際、意識が高いように見える人は、それが当たり前だからやっているだけで、「いいことをしよう」なんて思っていないと思うんですよね。ボクなんて、周りのみなさんに比べたら全然だめなので、「意識が高い」なんて、間違っても言えないわけですけれども(笑)。
というわけで、毎日大変なこともありますけど、今日もがんばって行きましょう~。