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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

映画 オッペンハイマーが描いていないと言われる「決定的シーン」を問題にする気持ちに寄り添い辛い

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この文章を書いてる時点で公開が決まっていないこの映画、情報はメディアと誰かの評価の文面だけという状況では自分が内容についてなにか言う筋合いは全くないと思っています。
ただし自分自身として本作を含めた特に第二次大戦までの時代を描いた色々な戦争に関する作品に触れるにあたり、例えば戦前に生まれた両親のもとに戦後17年目に生まれ、翌年には広島で胎内被曝した叔母を白血病で失った経験を持つ自分として「そもそもがドキュメンタリーでも何でも無い本作のようなエンターテイメント作品において、いろんな形での当事者が何千万人も居る事案について誰もが納得できる内容を客観的な事実だけで構成して作品に仕上げるのは不可能。ドキュメンタリーではなくあくまでもエンターテイメント作品であって客観性と正確性を目指して制作されたものではない」という大前提の理解をしてます。

誰かに同じ考えを持ってほしいなど全く考えていません。
あくまでも私自身の私自身が納得するための理解です。

客観視と思想信条

そもそも客観的事実というもの、そして状況の客観視と言っても皆背負っているものや見えているものに加えて前提となる時代背景や社会的背景や思想信条、精神的背景、そして宗教的価値観等など皆が違うのだから、同じものを見ても同じように理解はできないと思っています。

勿論今の時代の評価軸で考えると「そうじゃないだろ」という話は過去に当然山のようにあるのですが、その時代を経て今があるわけで、だからこそ今の評価軸で昔を見るのは愚かな行為であると思ってます。例えば昭和の頃は今より平和だった近所づきあいが良かったとかの話をネットで見たりしますけど、詐欺や強盗や殺人を含む犯罪発生率も死亡交通事故発生率も何もかも高く、平均寿命は今より短く、上を向いて歩こうという曲のタイトルが人々の心に刺さるったのはそうやって涙をこらえないと生きていけない状況が普通にそこにあったわけだし、無責任なサラリーマンの存在なんて絶対に許されなかったからそんな姿を植木等さんに銀幕の中の世界で実現してもらっていたわけだし、公害対策も含めた公衆衛生の状況も全然違う時代が「のどかで良かった」なんてどんだけお花畑やねんと思ったりするのは私の育った時代の私の記憶が私の理解の土台になってるわけです。中には今でも絶対に譲れないし許さないしこいつらとは和解もしないと思うほど強く反発した事象事案の経験をしたという状況背景もありますが、これは流石に御幣があるので詳しくは書きませんけど。

それはともかく、今から考えると相当に殺伐とした世界が比較的身近にあった時代だったはずなんですけど、でも例えばALWAYS 三丁目の夕日みたいな世界がなんとなくあったのも事実だとは思います。ただし後者の方が判り易いので客観的に時代を俯瞰したらそういう世界や世相が典型的な昭和の姿だよねと言われるとそうですねぇとなるわけで、例えば博物館とかあるいは店舗のディスプレイとかで「昭和レトロ云々」とか見ても「これ並べた奴平成生まれやろ」とか思っちゃうケースが勿論ゼロじゃない。でも求められているのは別に誰かの評価軸による正確さではなく「それを見て何かを感じてほしい人のお気持ちに寄りそう何か」な訳です。そこに過度の客観視など不要な訳です。

ということでこの「客観視」という単語が表すのは一体何なのかを疑い何を立ち位置の根拠にしているのかを意識するという姿勢はどのようなものに対しても変えない努力はしてたりします。それってあなたの感想ですよねと言われたら「そうですが、それが何か?」と言うしかない。
そもそも私自身の中にある軸が私自身の客観性を担保してるので。
それが私の立ち位置なんで。
それが世の中の多様性の存在を認める方法だと思ってるので。
別に何かあってケツを捲って行き場のない喧嘩を売ってる話じゃないです。
そしてここでも誰かに同じ考えを持ってほしいなど全く考えていません。
あくまでも私自身の私自身が納得するための理解です。

多様性の存在は認めるが、個人的にその多様性の構成要素の全てを受け入れられる訳ではない

勿論自分的に全く納得できないモノは山のようにあります。でも同じ事象であっても立ち位置が違えば見え方も解釈も評価も全く違うのは仕方ない訳です。それが仮に人道的にどうよとかいう話にしても、その人道的という解釈の立ち位置にすら多様性があると思っています。
世の中に於ける多様性の存在は誰にも否定も拒否もできない。
但しそれを何処まで受け入れるかどうかは個人の問題。「多様性の存在は認めるが、個人的にその多様性の構成要素の全てを受け入れられる訳ではない」ってところでしょうか。
でも誰かに同じ考えを持ってほしいなど全く考えていません。
あくまでも「存在してることは認めるけど俺は嫌いだというモノがいっぱいある」という達観できない自分を説明しているだけです。

他人にどこまで寛容であるべきなのか、他人の評価にどこまで鈍感であるべきなのかという永遠の課題

その流れでいうとある事象に対して、何らかの視点から「それってどうよ」と公言するのもひとつの多様性の発露だと思ってます。特に多くの人が何かしら比較的意見が言いやすい話題であればあるほど、それを公言したくなる人は増えるモノだと思います。
方や、その事象の存在は知っているがそれについて何も言わないというは一つの行動であり多様性の表現の一つだと思っています。誰かがなにか言っているのを眺めながら自分自身が何を思うか、思っていることを公言するか、その場合にはどういう言い方をするのか、或いは心のなかにしまっておくかも多様性の一つだと思ってますが。

大河ドラマに伸びる史実警察の魔の手

因みに私自身NHKの大河ドラマは記憶の限りまだ小学生低学年だった「天と地と」あたりから殆ど全部見てて、例えば1978年の「黄金の日々」は本当に好きだったりするんですが、そういえばここ何年かは「史実と違っていて許せん」と史実警察がネット上を跋扈する風景をよく見ている気がします。
他の歴史系解説エンターテイメント番組でも叩かれてる物があるのは知ってるし歴史系の話については一言いいたい方が全国に履いて捨てるほどいる(失礼な表現)のは容易に理解できますけど。

でも私、史実を再現すると誰が言いましたっけって思っちゃうんです。そんなコメントって記憶にないんですよね。
エンターテイメントとしてその時代のそれらの人達を題材に作品を作ってるわけで、歴史の教科書の実写版でも何でもないでしょって思うんですけれど、どうにも追及の手は緩まないようで、早い方はオンエア数時間後にはご自身が関係する媒体に「ここが違う」旨の記事を上げてるようだったりします。いや、皆さん日曜日の夜は休みましょうよ。

それに対して私自身は昔から「そもそもエンターテイメントなので大筋で結論が合ってればどんな流れでも良いじゃん」という程度の姿勢で楽しんでます。方や史実はこうなんだ全然だめじゃんと暴れてる方の中には毎回隅から隅までしっかり見て反論してる方もいらっしゃるようで、なんだか大変ですねと思ってしまいます。何故他の時代劇は放置して大河ドラマにばかり食いつくのか良く分からないのですが、腹が立つなら見なきゃ良いのにと素直に思うんですけどね。

でもやっぱり誰かに同じ考えを持ってほしいなど全く考えていません。
あくまでも私自身の感想なので。

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