通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

プロを語るプロになること無かれ

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世の中のあらゆる分野において「プロフェッショナル」と目される、称される、あるいは称する人がいるわけです。正に業種業態を問わない世界ですが、その「プロフェッショナル」なる定義自体が一様では無いのも事実。何らかの訓練や経験を元に「プロフェッショナル」が位置づけられる分野も有れば、その仕事や役割自体に従事している事が既に「プロフェッショナル」であるという話になるものまで多種多様です。

因みに私としては、『なにかしらの分野で何かしら他の人がやらないことや出来ない事を担当しているのが「プロフェッショナル」であろう』いうというコトが言えるんじゃないかと思っています。間違いないのは、有る一定の役割を果たすためにそこに居るわけで、それに対してお金がどうのこうのとか経験がどうのこうのじゃなくて、出来て当たり前の役割を当たり前のように果たすのが「プロフェッショナル」という考えかた。だから逆に言うと、役割を果たす事が出来なくなれば「プロフェッショナル」の肩書き返上。所謂引退ですね。

 

これができたらプロとか言う話の意味の無さ

何ができるからプロであるという話の流れだと、ここまで出来たら、あるいはこんな経験を積んだらもうプロだよねという話が成立します。でもそれはたとえば英検何級とかTOEICで何点とったから云々という議論に似ています。そんなの単なる入り口で、でも実はそんなの後付でもなんでも良くて、要は必要な役割を果たす事ができるかが問題。もっとも、要求レベルの設定も同時に問題になるんですが、たとえば自分のスタッフの能力とか本来の目的とかを考えずに目標設定する事自体が「プロの仕事ではない」訳で、相手をキチンと見て、そのチームなりグループなりの最大能力を出させるための仕込みやら目標の設定をするために闘うべきだと思うんです。

この考え方で行くと、「何々ができるからプロである」という考え方はまるっきり排除されます。先に役割がある。その人のスキルは別の話。それが上手く行かないなら当然本人の問題もあるわけですが、基本的に組織的に何か大きな問題やら誤解を持っているわけです。それはプロの仕事場じゃない。

そういう考え方があっても良いと、私は思っています。

 

その場で求められる事を出来て当たり前というのがプロフェッショナルの立場であるというのが本質論

とはいえ、自分から求めてその場に身を置いたのか、それとも行きがかり上そこに居合わせて何らかの役割を担わされているのかというところで大きな違いがあるのは勿論承知の上。たとえば一介のサラリーマンが自分のプロフェッションはこうであるからこんな仕事をさせろと言い張ってゆくというのが難しいのは当たり前。このアタリは自分がどこまで何をコントロールできる立場なのかによるわけですが、ならば自分で企業とか組織を立ち上げて自分の好きな事を好きなようにできるような環境を作ればよいでしょ?という話もこの流れの先にはあるわけです。この部分でいうと多分本質的な解決策の1つだとは思うのですが、そこで「経営のプロフェッショナル」という立場でゆくのか、何かしら専門分野のスペシャリストとしてその立場や成果を自分の責任範囲においてコントロールする立場がベースなのかによって変わってくるんじゃないかとは思います。

実はここまでくると自分で会社を経営した事が無い私としては段々理論的に辛くなってくるのですが、とりあえず少なくとも自分が与えられた役割に応じてチームを編成し、一定期間それを運用したつたない数度の経験からはそういうことは言えるんじゃないかなと思ってはいます。何れにせよ、重要なのは絶海の孤島で1人で生活しているのでなければ何かしらの活動や行動に必ず誰かが関係するわけで、かつその人や組織との関係の中でお互いに影響力を持つことになり、その上で自分がそこで果たすべき役割・・・これは組織的なことかもしれませんし、社会的なことなのかもしれませんが、それらをキチンと果たす事が出来るのがプロフェッショナルなんじゃないかと思っています。

そういう考え方があっても悪くは無いよねと、私は思っています。

 

「プロ論を語るプロ」になること無かれ

こういう話は誰でもそれなりに出来ると思います。自分の話、知人の話、一般的な話、スポーツの話、職人の世界の話・・・ それ自体に意味が無いかと言うと、決してそうではないし、誰かが何かに対してどういう姿勢で臨んでいるのか、どういう過程を踏み、どういう成果を出し、それを自身はどう評価し、どういう風に後進に継承し、それらがその分野で、チームで、企業で、組織で、社会で生かされているのか、そして生かされてゆくべきなのかというコトを知り、議論し、学ぶことは大事。

ただ、自分がマーケティング・コミュニケーションを、そして自身がプレゼンテーションを生業としていた時期が結構長かった事からの自戒も込めて思うところがあります。いや、要はですね、「プロって凄いんだぜみたいに人の凄さだけを伝えるプロになっちゃ全然面白くない」というコトなんです。もちろん何かを人に伝える仕事のプロフェッショナルとして何らかの話しをわかりやすく人に伝えるというのは大事な役割です。ただ、自分のやってきた事を下敷きにせず、こんな人がこんな事をやってきたんだよという話ばかりになると聞いてるほうは「ふ~ん」で終わってしまう。伝記を読んでるのと同じですね。

じゃぁどうしろっていうのよって?

とりあえず「何が出来ればプロ」とか「何が出来るのがプロ」みたいな定義を頭から外すべきだと思うんです。「給料をもらえたらプロ」とか「お声がかかるようになればプロ」ってのも同様です。そんな話じゃなくて、その人がその果たすべき役割についてキチンと考え、キチンと行動し、(最大限)自分が出せる結果を出すために努力している姿勢を持って事象に当たっているのであれば、その人はプロフェッショナルである、と私は思っています。もちろん結果が毎回出せればOKですが、それが駄目なら誰かに置き換えられて消える必要もある。だってその人を維持することがプロフェッショナルの活動する場ではないわけですから。それで言うと、たとえば東京ディズニーランドを始めとする「(たとえ)アルバイトであっても高度なプロフェッショナル意識を持ち、きっちりと求められる成果を出せる集団」が世の中には多く存在します。プロフェッショナルであるという意識と雇用関係や取り巻く状況は別の話だと思うんですね。

 

じゃぁ、お前は何なのよ?

自分自身の経歴を考えたとき、実は強烈にプロフェッショナルであるという意識を持って一定の役割に取り組んでいた時期が幾つかあります。残念ながらサラリーマンの立場ですから、そういう役割を常に求められるか、あるいはそういう場が常に存在してるかというのは本人の気持ちとは別の理由で変化します。それこそ自分が間違いなく一番(当時は)向いていると思っていた役割がある日本国からのメール一本で消し飛んだくらいの楽しい経験は持っているくらいですから、まぁそこはそんなもんでしょうという部分は正直あります。

もっともそのプロフェッショナル意識を例えば有る特定の仕事だけに集中して持つのか、もう少し広い範囲で物事を考えるか、業種業態全体の中での役割なのかなどなど視点を変えれば実は自分の発想から言うプロフェッションというのはこういう部分の事に置き換えて理解できるよねというのが見つかるものです。業種を跨いで転職した経験のある私ですが、実はそういう視点の持ち方をすることによって「河岸はどこであれ根本は同じだよね」みたいなところで納得する事もできたという経験も併せて持っています。

プロ論を語るプロになるなと自分で言いながらも長々と書いていますが、要は「自分の立ち位置を理解し、役割を理解し、それに向かって意識をもって事にあたるのがプロフェッショナルで、それ以上に条件なんて無いんじゃないの?というコト。わたし的には、結局のところ、これに尽きるんじゃないかと思っています。

ほんでもって逆に言うと、自分が果たすべき役割の定義をする事すら避けている、というコト自体を高らかに謳う方も散見されるとか、私の周囲という話ではなく一般論としても展開できてしまうところが実体としての社会の面白いところではあるのですが、まぁそんな意見もあっても悪くは無いよね、と思っています。

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