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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

電子書籍は人間としての所有欲を満たせるのか

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今の世の中の流れの中で書籍類の電子書籍化自体を止める事は多分出来ないんだろうなというコトは理解できます。これはCDが曲ごとのダウンロード販売に大きくシフトした事例を見ても、多分止まる事は無いんだろうと思います。不肖岩永も今から20年ほど前にまだ「マルチメディア」と称していた頃の世界の普及に携わってきた経験なんてのもあって、その頃から何れそうなるよねというコトは理解していました。

当時は技術的な観点の方がクローズアップされていましたが、今となっては市場全体がそういう流れにあるのだろうなというコトは理解しています。そんな事は百も承知。でも、それって楽しいことなんだろうか?そもそも楽しいって何なんだろうかってのを考える事があるんです。

 

手に入れることの意味

楽曲の話なんか正にそうですが、いまや欲しい物だけを手に入れる方法があるわけです。嘗てLPの時代からCDまでは、基本的にアルバムと言う考え方があって、一連の楽曲をひとつのアルバムに収める事によってそのアーチストの訴えかけたいこと=提案があったわけです。もちろんそんなの全く関係なしにどこを切り取っても構わないものもあったわけですが、その「アルバム」という概念が作品の根本的な考え方になっていたぶぶんというのは間違いなくあったっと思うんです。

これはジャンルにも寄るんだとは思うんですが、ロックであれジャズであれ、だからこそとんでもなく短い曲や強烈に長い曲などが収められていたりしましたし、全体を通して聞いたときに一曲目には一曲目の意味があったし、アルバムの最後の曲には最後の曲の意味があったんじゃないかと思うんですね。

因みにそんな概念なくなっちゃったよ?って話は当然あるわけで、だからこそ楽曲切り売りが何の問題も無く受け入れられるわけですが、ライブなりコンサートなりでの曲の並べ方やトークの入れ方なんて言うのはやっぱりどこかでキチンと構成されたものっていうのが存在できると思うんですよ。まぁあくまでも音楽業界については素人ではありますが、少なくともワタシはそう考えたりします。変な例え話にしてしまうと、楽曲単位での接触はそれでそれでおある固有のアーチストとの「接触体験」ではあるんですが、一連の流れであればそれは一種の当該アーチストの「ブランド体験」と言えるんじゃないかと。

 

 

手を触れることの意味

ってのを踏まえつつ話を電子書籍に戻してくると、読者の目に触れるのは「電子書籍リーダー」たる機械と「文字」であるわけです。で、何種類もの「電子書籍リーダー」を使い分ける人っていうのはそれほど多くないでしょうから、基本的に一個人が手にするのは常に同じサイズ、同じ色、同じ手に持った感をもった「電子書籍リーダー」。版型や厚みや重さなどは常に一定です。もちろん、それはいろんな意味で色んな確度から決定されたものであって、多分その「電子書籍リーダー」が開発された時点では提供者にとって最良の、あるいは最良に近いものであるは思います。勿論色んな阻害要因はあったはずですし、本当の意味で送り手が世に送り出したかった最良のモノとは違うのかもしれない。でも、それがそこに出てくる必然性が何かあったはずなんです。きっと。

ってことで、すくなくともその部分のマーケティングや開発の人たちの良心は信じておきたい。

これでも一応(B2Bが主体だとはいえ)当時は立派にメーカーと自称できた企業にいたワタシとしては、そこは信じたい。でも、事「電子書籍」の世界を目の前にした「書籍」のユーザーであるワタシ個人として、どうしても避けて通れない違和感がある部分ってのが残るんです。なにかって?

まったくもって「電子書籍」はワタシの所有欲を満たせないんです。

ワタシのように旧い人間だと、最後は目の前にある、あるいは手に触れることのできるモノを信じたくなるんですね。これはどうしようもない。たとえそれがどんなに巨大でどんなに厚くてどんなに重くても、読みたいと思う書籍の装丁や選ばれた文字、ページの台割から個々のページのレイアウトまで含めて、ひとつの作品としての書物に触れることってのがとても好きなんです。その部分を少なくとも今の「電子書籍」は全く満たす事が出来ないんです。

 

だから全く欲しいと思わないという言い訳

因みにそれ以外に(これはKindleやiPadの発売前後でも言い続けていたのですが)それらの手に持った感が書籍代わりなるかというととても想像できないなぁという印象を持っていたりします。で、これはいまだに変わっていないんですね。自分のライフスタイルの問題かもしれませんが、基本的に書籍に触れる時間というのは片道でも子一時間かかる通勤の間か、もしくは寝る前の時間。非常に混みあった電車内でつり革にしがみつきながら呼んでいるかと思うと、枕元で読んでいたはずが朝になると書籍自体が自分の枕代わりになっている事も無きにしも非ず。この環境の中では「硬い書物を読む機械」はどうにも不便で仕方が無い。

じゃぁiPhoneなりスマートフォンでどうよという話もあるんですが、何れにせよ書物それ自体を手に持って読むのとはやっぱり体験の質が違う気がするんです。そんなのもう旧いよって?いや、まぁそうなのかもしれませんけどね。

 

かといって電子書籍の未来を否定する事は無いんですけど

たとえば教科書とかだといいのかもしれませんね。ただし電子教科書だと線を引けないぞとか書き込みも出来ないぞという話もあったりするわけですが、そこはノートを普通に取りなさいとかまぁ色々運用上の混乱が起きそうな予感がします。ただ、何れにせよ、今の私のライフスタイルだと入り込む余地が殆ど無いのが「電子書籍」の世界です。

ただし、それが永続的な話かと言うと、実はそうでもない気はしています。正直な話、今は自分の体はそれなりに健康で不自由はしていませんし、老眼が年々厳しくなりつつあるとはいえ、まだ普通に書籍なり新聞なりの文字は読めているわけです。ただ、それとて永続する話ではなくて、純粋に生き物としての自分の経年変化が今の思想的なツッパリを打ち消す時期が来るのかもしれません。そうなると、何かしらの手助けを借りるしかない。

そして、そのとき、たとえば大きな活字の本を探すのか?それとも拡大表示ができるような「電子書籍」のようなものに頼るのか?

多分その時点ではあまり選択肢が無くってるんじゃ無いかと思うんです。そのときは、多分所有欲云々と言った議論はどうでも良くなっていて、多分情報自体に対する欲求だけが残ってるんだと思うんですが、それが良いのかどうだか良くわかりません。

でも、たとえどんな状況になったとしても、たとえば長い間捜し求めていた一冊の本を苦労の末物理的に手にしたときのような感動を「電子書籍」に求めるのは酷なんだろうなっていう気持ちは変わらないとは思うんですけどね。

 

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