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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

アクセシビリティという考え方に最初に触れた体験を思い出す

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不肖岩永、何気に長生きしているもので色んな経験をしてるのですが、ふと、いわゆる「アクセシビリティ」という考え方に最初に触れたときのことを思い出しました。長生きしてるからって、一体何年前の話だって?いや、そもそもは今を去ること19年も前。1991年の事で、場所はスイスのジュネーブ。思えば遠くに来たもんだ、と。

 

キッカケはNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」

残念ながらこのエントリーを書いている1月13日の午前0時過ぎの段階で、この番組自体はまだ見ていません。ただ、実はこの番組で取り上げられていた浅川さんはIBMに同じ1985年の入社だったこともあり、IBMに居たころから知ってはいました。これまた残念ながら同期入社が1600人もいた(笑)おかげか仕事上の直接の接点が無く直接の面識は無いのですが、まぁ、それはそれ。

で、何をワタシが思い出したのかという言うと・・・ 実は現在アクセシビリティシステムと呼ばれる一連の流れを日本に持ち込んだ張本人の一人なんです。もちろん色んな流れが私自身が関与するまでにありましたし、IBM以外でもそういう事を色んな企業や団体、あるいは研究所などのレベルで取り組んでいましたが、少なくとも当時そういう流れのお手伝いをワタシがした部分が事実ありました。

でも、イベント屋が何をやったの?

 

そもそものキッカケはITU TELECOM 91というイベント

やっぱりイベント屋ならではのキッカケがそこにあるのですが、1991年にジュネーブで開催されたITU TELECOM 91にワタシは日本からの派遣スタッフ4人の一人として参加していました。ここではIBMブースの展示物の紹介と簡単な通訳、モノによってはデモのオペレーションなども行うという役割で、おもに日本語でのサポートでしたがアジア各国からのお客様についてはアジアからきたお前がやれと言われて何度か英語で香港やシンガポールのお客様にお話しをした記憶があります。

で、本来は通信のイベントなのでそれに関連するモノが中心に出展していたのですが、そこでの出展物についてのレポートなどを現地から必死で手書きでおこし、それをFAXで日本に送るという作業も行っていました。何しろネットワークでのメールがIBM社内でもまだそれほど広く普及していなかった時期のことです。テキストベースであればともかく、イメージを貼るとかについては大変な時期で、しかもDOS/V登場前のヨーロッパ。目の前にあるのは英語やフランス語をサポートするメインフレームの端末かPC/AT(オリジナルの本物ですよ)ばかり。日本語でメールを打つなんてどうしようもない時代でしたから、とにかく手書きでFAX。

で、そのイベント自体は終わったのですが、実はそこで見たものを翌年日本に持ち込むという話が帰国後に持ち上がりました。

 

で、直接のキッカケは1992年にIBM箱崎事業所で開催したIBM TECHNOLOGY FAIR

このイベントのために世界各国からIBMの最新技術を持ち込んでデモなりプレゼンテーションんをしようぜという話になりました。そこで前年にITU TELECOMのサポートで現地に行っていた私に(幸か不幸か)白羽の矢が立ちました。

「ITU TELECOMでみた出展物でめぼしいものを持ってくる段取りをつけてこい」

ま、実際には一人で行ったわけではなく当時の所属部門の部長だったTSさんという方と一緒だったのですが、アメリカで春先にシカゴで開催されたCOMDEX SPRINGに行き、本来はそこだけで一週間弱を過ごすはずだったのが全然成果が無いので予定変更し、結局(記憶がただしければ)その後約10日くらいでフロリダ、ダラス、アトランタ、ワシントンDCと回ってニューヨークから戻るという強行軍になったんですね。そして一か月くらい後に、今度はニューヨーク州のワトソン研究所周辺をめぐる旅ってのもやりました。これもいきなり一週間くらい。

ということで、なんとまぁ人使いの荒い会社(笑)だと思ったのですが、そのツアーの中で今で言うアクセシビリティのシステム、当時IBMではSPECIAL NEEDS SYSTEMと呼んでいた一連のシステムの紹介とデモを見たんです。

 

それが何物かというのは相変わらず手書きレポートでFAXを日本に送りまくってたのですが

THIINKABLE、SCREEN BRAILERなどと呼んでいた、おもにPCベースのアプリケーションやハードウェアを始めて見たのですが、同時にそれらのシステムを企画し、開発しているUS側のスタッフの話も聞きました。それらの取り組みについてはそれまで日本では殆ど紹介されていなかったのですが、そこで当時初めて聞いて一番驚いた話。

「これらのシステムには値段が付いています。そしてそれは商品として販売しています。」

いわゆる寄付行為は(少なくとも当時は)基本的には行っていなかったという事実です。

実はここには理由があります。もちろん一定の条件がそろう場合無償で提供する場合もあったようなのですが、基本的には商品として販売していたという事実です。なぜか?これにはワタシが当時そこで見たシステムの開発の背景の説明が必要なのですが、実はこれらのシステムは人生の途中で麻薬をはじめとする何らかの人為的な理由で後天的に障害を持った人の社会復帰を助けるためのトレーニングシステムであり、それに対して値段を付けるのは・・・

  1. 社会復帰して自立するためのシステムであるが、障害を負った事について(特に麻薬や自身の責任が立証されている傷害事件の場合等なのですが)本人に責任の一端がある。さらに社会復帰することによって本人が経済的にも自立できるというメリットを享受するための仕組みであるから、その訓練のためのシステムとしては対価をいただく
  2. システムとして対価をもらいビジネスとして成立させないと、よりよくするためのコストを賄えず結果的によりよいものにしてゆく活動が維持できない。

他にもいくつか説明された理由があったのですが、良く覚えているのがこの二つです。これらに対して多くの議論があるかとは思いますが、事実その時点で米国のIBMにおけるSPECIAL NEEDS SYSTEMという仕組みでの事業が「事業」として維持されていたことは間違いなく事実なんですね。

 

システムとしてそれぞれが目指すところは判った。ただしビジネスモデルとしてそのまま日本に適用できるのだろうか?

とりあえずそれを日本にレポートで紹介し、帰国後はサンプルやら写真やらで資料をまとめ、必要な手続きを行って92年のテクノロジーフェアに展示はしました。

でも、さて、どうするよ?

そのイベントの時点ではIBM社内からの有志でサポートをお願いしていたのですが、その後ひとつの形として担当部署を作ろうという話になり、色々な経緯からIBM SNSセンター(ソーシャルネットワーキングのSNSじゃなくSPECIAL NEEDS SYSTEMの略です)が設立されました。そこでその仕事を担当し、その後IBMの枠を外したほうがより良い方向に行けるよとIBM社内外からの後押しもあって出来たのがUDITという組織であり、それを当時から引っ張っているのがUDITの代表の関根千佳さんです。

私自身はIBMのSNSセンター、そして現在のUDITに対してそれほどお役に立ってきた訳ではなく、単なるキッカケを作っただけ。ということでなんだか心苦しいところではあるのですが、私自身、そして関根さんがIBMを離れてから随分と経つにもかかわらず、今では家族ぐるみでお付き合いさせていただいているという大変にありがたい状況にあります。

このあたりの経緯については当事者である関根さんも含め知ってる人は知っている話で、別に誰に対しても恩着せがましく話をする種類のものでもないのですが、なんとなくそういう話って今までエントリーにしてなかったよな・・・と思った次第。

 

ま、ワタシもたまにはそんなことのお手伝いをしてたんですよ。

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