そうか、これが真のプロフェッショナルなのか!
おはようございます。
曇り空。梅雨の雲が覆っています。今日もお天気が不安定とか。雷やら雹やら、今日は何が降るやら!
===ほぼ毎朝エッセー===
□□これが真のプロフェッショナル
「お金をもらうことがプロフェッショナルの証拠だ。ゆえに高額な金額をもらうことが成功の度合である」
この考え方は資本主義を中心に根強いです。
これは逆に考えると、プロとはお金で使われる人のこと。つまり、対価をお金に換算してもらう人種なのです。お金がもらえるのであればそれでいい。言いかえれば、やる気の無いサラリーマンもプロです。
でも何か変ですよね。お金をもらうことがプロなのか?
昨日の「プロは用意周到・アマは準備不足、プロのアドリブ・アマの出鱈目」に続けて考察しましょう。
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ふと考えたのですが、真のプロがやった仕事というのは時間を超えて人に感動を呼び起こすものです。
その時代の「時価」では計れない何かを持っています。つまり時系列という概念を入れると分かりやすいようです。
・あの機材であれだけの音を創っている。
・あの時代にあれだけの機械を開発した。
・コンピューターなしに惑星の軌道を正確に計算した。
・あの緻密な絵をずっと描き続けた。
すごい仕事には感動すらが呼び起こされます。その結果は時の水準からかけ離れているものです。
そして、その水準の離れ方がその時代のニーズに合致していれば大きな対価になるものなのでしょうが、合致していなければ、偉大なるアマチュアになるのでしょう。もらえるお金の額は、単なる時代の欲求の反映であり、真のプロフェッショナルの度合との尺度とは別なのです。
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では、時代を超えて人に感動を呼び起こすもの、それを創るのはどういう人なのか、どういう仕事なのか。その裏にはひとつ共通しているものがあるようなのです。
それは、「我ここにあり」あるいは「これが私の仕事だ」という「ブランディング」です。自分の創ったものを、外に出す前に、しっかりと納得して、「自分ブランド」を押してから出すという感覚です。
ブランドをつけるのだから、そのプライド、その魂の込め方、その創り込み、そのそれぞれに責任を持つ。終わりまで興味をもつ、好奇心を保つ、ということがポイントなのでしょう。
妥協するのであれば、妥協した程度のブランド価値になるだけ。興味少なく低いレベルで妥協すれば、それはその程度のプロ。レベルを高めれば、プロフェッショナルの度合は高まります。
高めることを続ければ、時を超えた価値へと光り出し、結果を感動のレベルにまで高められるのでしょう。この姿勢を持つことが真プロフェッショナルというのかも知れません。
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もらえるお金の額で比較するのは、単なる高級バイト度合の比較。本当の意味のプロフェッショナルではありません。
どうやら「自分ブランド」を高めることが自分のプロフェッショナル度合を決めているのです。実は単純なことであり、「世間が認めるかどうかは、あまり関係のないことだ」というところに考察が到達しました。
真のプロとは自発的なものだったわけです。