「ソツがない組織」とはいい意味なのか悪い意味なのか
おはようございます。
早朝、気温は涼しいのですがどうにも湿度を感じます。 折りたたみ傘携行しています。
どうも渋谷で誰かが鳩に餌付けしているみたいですね。
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「あれ、ソツって何だろう?」
今朝WさんのDR(Daily Report:日報)に「ソツのない製品でいましょう」とコメントしてみてふと疑問が。
そもそも「ソツのない製品」とは、いい意味なのか、悪い意味なのか。
そこで「ソツのない」という意味について調べてみました。
Yahoo知恵袋によさげな答えがありました。インターネットはありがたいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010478050
以下引用==>
「そつが無い」とは、「率(そつ)が無い」
「率(ひき)いるところが無い」(指導して教えるところが無い)
「万事に抜かりなく、指導して矯正するところが無い」
<==以上引用終り
「なるほど!自発的に抜かりなくできていることなのか」と、納得できました。
つまり「ソツのない製品」ということは、いいことのようです。
そして、悪い癖なのかいい癖なのか。いつもの疑問パターンが頭のなかにもたげてきました。
「んで。『ソツのない組織』というものもあるのかな。それはどんなものなんだろう?」
「ソツのない組織」という言葉からは、微妙に「冷たさ」のニュアンスを感じてしまいます。
それは「ソツのない人」という表現の、優等生的なものを感じるからなのでしょうね。
自分はさりげなく全部できていて、他人が出来ないことは放っておくとか。そんなニュアンス。
組織にしてみたら、誰かが何かをしていても、出来ないでいても無関心であるようなこと。
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ニュアンスは別として、「率(そつ)が無い」という意味から考えてみましょう。
「ソツのない組織」とは「率(ひき)いるところが無い組織」になりますね。
率いる人がいない組織。これっていいことなのでしょうか?
意見が多すぎて取りまとめがついていないような組織のことでしょうか。
今の政党なのか一部の大企業なのか。結果として何も達成できい組織になってしましそうです。
やはりソツ(率)は必要なことなのでしょうか。
そこで自分達の現状を考えてみました。
うちのやり方は「率いる」ことを無理やり行っているのではないです。
どちらかといえば「促す」ことで、気づきを元に動いてもらうことを根気強く待っています。
気がつく感度を持ってほしい。気づいてほしい。気がついたら行動してほしい。
平等な議論から出てくる様々な気づき、それに皆でアイディアを付加していく。
プロセスの中で重要性や難易度がわかってくる。一人の超越した意見では決めない。
そのような姿勢であることを「促して」います。
その形の方が、変化の激しい市場のニーズに的確にやりがいを持って迅速に対応できるからです。
率いることが強い際、その人が間違ったとき、その組織は徐々にネガティブになります。
戦犯として処刑すればいいというようなこと。うちにそのような間違いを犯す体力はありません。
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ここまで書いて気がつきました。
「あ、うちの場合は『ソクがある』なのか。『ソツが無くてソクがある』のか」と。
ソツが無い組織でも、ソクがあれば、リスクの少ない形でビジネスが実現できるということですね。
実は誰しも一方的な率をされるほうが楽でいいものです。率いられたら責任が率いた人に転嫁できるからです。
促がされるのは、あまり気持ちいいものではありません。自分が参画すれば自分にも責任があるからです。
リーダーがあ細々と指示や大胆な指導をするのではなく、皆が自発的に考えて動く組織。
「ソツのない組織ですね」とか「ソツのない製品ですね」も、そこに「ソク」があればいいのです。
充分なほめ言葉だと考えていいわけです。
そのような結論になりました。