「庶民意識」が会社も国をも危うくする
おはようございます。
久々の晴れの早朝。やはり気持ちがいいですね。
「どうして人は当事者意識を無くすのだろうか」
高橋さんの『JALの経営を立て直すために稲盛和夫氏がやったこと』を読んで、
思ったことがあります。今朝はそれについて。
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人はどこかで「私は特別な人」と思っているものです。
その時期がいつやってくるかどうか。それは様々ですがそういうものです。
例えば、名門小学校に入ってそのままエスカレーター方式であがっていく。
小学生ながら名門校の制服を着て「私は特別な人」という意識を持つ。
そして、大学進学の頃に失敗する。
例えば、器用でたいていのスポーツはすぐにできる。
だから特に練習する必要はない。「私は特別な人」という意識をもつ。
そして、地道な練習をしないまま中途半端に終わる。
例えば、受験勉強を頑張っていい大学に合格する。
選抜に耐え抜いたのだから「私は特別な人」という意識をもつ。
そして、いつのまにか学歴主義で傲慢になってしまう。
例えば、子供がいい会社に入る。
なかなかいい子を育てたものだ。だから「私は特別な人」という意識をもつ。
そして、いつのまにか子離れが怖くなってしまう。
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「私は特別な人」という意識をもつと後に失敗することが多いです。
だから謙虚であろうとすれば、「私は特別な人」意識を否定して「庶民意識」になろうとする。
でも、「私は特別な人」という意識をもつことは本当に悪いことなのでしょうか。
実施のところ、人は自分を「私は特別な人」と思わない限り生きづらいです。
やはりこの世に存在しているからには意味が欲しいですからね。
オンリーワンという表現は最近非難を浴びますが、実際に人はオンリーワンなのです。
だから「私は特別な人」なのだと思うべきなのです。
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良くないのは、心の中で「私は特別な人」と思いながら「庶民」を装うことです。
「庶民」という隠れ蓑を持っている。マスメディアが好んで使いますよね。
そしてこの「庶民」という意識にずるさが見られます。当事者意識がない。
「庶民」意識とは「国が」とか「社会が」とか「会社が」とかの大きいものが、
弱者である自分を救うことが当たり前なのだという考え方をすることです。
英語でもあります。「They」という表現で自分たち以外の存在を表現します。
そして、本来の自分の負担分を見えなくしてしまっている。
負担しなくても保護してもらえるのが当たり前と。
そんな世界はありません。
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堂々と「私は特別な人」なのだ。堂々とその能力で周囲を良くしていくのだ。
そのような意識を持って、その能力の大きさを信じることなのだと思います。
ネガティブなことを言う「庶民」が物事を悪化させる影響力は、本人が思って
いるよりもずっと大きいものです。
日航ですら当事者意識が欠けた人たちが集まって潰せてしまうのです。
ギリシャを見ていてもそうですよね。国ですら傾く。日本も似ています。
とかく使いがちな「庶民」という隠れ蓑。その危険性に気が付けば船は立ち直ります。
「私は特別な人」
「私がいれば周りを幸せにできる」
そんな意識で行動を起こすべきなのだと思うのでした。
e-Janではそういう意識の人たちが主体です。絶えず自分が貢献できることを探している。
それなので巡り巡って世間相場よりだいぶいい年収が一人ひとりに返ってくる。
結局、自分が行動を起こせば、自分の環境が変わるのです。
「庶民」なのだから力が無い。自動的に保護してもらえる。そういう意識は怖いと思います。