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パラグアイ:「超」親日国という知られざる一面

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おはようございます。

霧と低い雲との区分けがつかない、コロイド状の空気の中の出社でした。ついに、会社近くでポツリポツリ。何とか傘を濡らさずに到着!今朝は、今晩のパラグアイ戦を控えての豆知識をどうぞ。

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「今晩のワールドカップでパラグアイ戦を迎える前に、
 日本であまり知られていないことについて是非ともお伝えしたい」

父から、このように電話がありました。父は外交官をしていました。そのキャリアの中で1985年~1988年の2年半は、パラグアイにおける日本大使でした。記載します。

アスンシオンという街が首都の地球の裏側の国です。日本の面積の1.1倍、人口は700万人弱です。飛行機でいくと36時間かかります。うんざりするような飛行機での移動、学生時代自分も二度ほど行きました。アルゼンチン、ブラジルとの国境にあるイグアスの滝も有名です。

■パラグアイへの空路

成田
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ロス(米)
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リマ(ペルー)
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リオデジャネイロ(ブラジル)
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ブエノスアイレス(アルゼンチン)
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イグアス(アルゼンチン)
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アスンシオン(パラグアイ)

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パラグアイは中南米では珍しく日本びいきな国だとのことです。それもが付くほどです。

国連などの国際会議でも日本の意見への賛成票を出し続けてくれています。さらに、駐日パラグアイ大使も2004年から二代続けて田岡大使(2004年~2009年)、豊歳大使(2009年~)と日系人です。

では、なぜそれほどの親日国になったのでしょう?

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戦後、満州からの帰国者で日本人の住む先が不足していたころのことです。パラグアイのストロエスネル大統領は、日本人の受け入れを中南米で初めて認めてくれました。移住は1956年から始まり、1959年の「日本・パラグアイ移住協定」の元で増加し、7000人もの日本人がパラグアイへと渡ったといいます。

その日本人移民たち、与えられた原生林を必死に開拓し、農作に励みました。開拓した農地を今度は機械化した農業で、大豆と小麦の輪作に成功します。

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それまでは綿花が主要な輸出品だったパラグアイです。1980年代には大豆が輸出の4割に至り、現在では7割にもなりました。輪作で作った小麦も同国の自給自足に大きく貢献します。

他にも、従来は無かったトマトなどの野菜類も生産しています。従来は存在しなかったトマト料理なども「日本人がもたらしてくれた」と、今は町中どこでも手に入るそうです。

それなので日系人は、パラグアイの経済発展に大きく貢献した勤勉さで困難を克服し成功したと、大変感謝かつ尊敬されているそうです。誇らしいですね。

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昭和天皇は大人数の日系移民を受け付けてくれたことを大変感謝していたそうです。ストロエスネル大統領来日時、帰国の際には、羽田空港で雨の中、傘で飛行機までお見送りをしたとの逸話があります。

ストロエスネル大統領も大の親日派、2006年に亡くなられましたが、父がパラグアイにいた頃は日本関連の話ではプライオリティ高く会ってくれたそうです。

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日本にとっても、大豆やゴマなどを大量に輸入している貿易相手国です。

特に大豆、従来その殆どをアメリカからの輸入に頼っていた日本には、現在のブラジルやパラグアイからの輸入はリスクマネジメントという意味でも貴重な資源になっています。

大豆がパラグアイの主力輸出品、豆知識とはこのことでした(爆)。

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一方、サッカーは狂信的に盛んです。ボール一つあれば遊べるサッカーは、貧乏な人が多い国の、子どもたちの遊びの全てです。サッカーヒーロー目指したハングリーさ、これは侮れないです。

今晩のワールドカップ、こんなパラグアイの知られざる一面を知りながら観戦するのも楽しいのではないでしょうか。「どちらを応援すればいいのか、心が痛む」と父曰く。

※20100629 07:40 移民→移住、空路タイトル追加、原始林→原生林、危険回避→リスクマネジメント

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