電車でみえる日本文化の凋落!?
★電車の中はさまざまな心理が行きかう変な空間なのかも知れません。
【朝メール】20091120より__
===ほぼ毎朝エッセー=== □□無関心に弱いのに人に関心を持てない現代人
会うと恥ずかしくてみじめな気持になることがあります。
・電車の空き席を我先にと小走りで席にお尻を差し込みそのままタヌキ寝入りをする人
・両方向から入れる改札口で向かいの人に先んじてピッをしようと速い動きをする人
・駅周辺で歩きたばこをする人、後ろ50メートルはたばこ臭いです
・隣に座らせないように大股を開いて座る人
・電車の中でお化粧をする人・電話をする人・プッシュ音を消さない人
始発や始発2番目の電車に乗っている理由は、こういう人たちをなるべく避けたいということもあると思います。人に対するポジティブな希望がそがれてしまいます。そういうマイナス要素は、少しでも避けて生きるのが賢明だと思うからです。
ところが、残念ながら、ここのところ始発2番目に、走ってでもいい席を取る、「せっかちおばさん」が出現してしまいました。新参者なのですが、妙に無礼で浮いています。今朝はそのおばさんが、自分がゆっくりと座ろうとしたところに走ってお尻を差し込んだりしたので、ガッカリです。朝のいい気持がそこで少し曇ってしまいます。
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でもどうしてそのようなことが起きるのでしょうか。「せっかちおばさん」を憎んでもこちらの胸に毒素がたまるだけです。その原因について考えてみました。
・他人に対する無関心さから?
→これはありそう。
・そういうことを恥ずかしいと思うような教育がされていないから?
→いや、されているよなぁ。道徳とかで、電車で目の前のお年寄りに席を
譲らなかった女の子が、自責の念で悩む話とかもあるしなぁ。
・かまってもらいたいから?
→そういうことでもないだろうな。暴走族とはちょっと違うか。
・客観的にものごとが考えられないから?
→それはありそう。
・他人と仲間の区切りが強い?
→これはあるな。他人になると途端に無関心。旅の恥はかき捨てということばもあるか。
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どうやら、関連する要素としては、他人への関心、客観性、そして、区切り意識というあたりにありそうです。意外と、こういう人に限って、自分の関係ある人の前では愛想がよかったりするわけです。他人、特に「区切り他人」に関して主観性と客観性のファクターが関わってきそうです。いつもの4事象で考えてみましょう。
(1)区切り他人に関心がある × 主観的
(2)区切り他人に関心がない × 主観的
(3)区切り他人に関心がある × 客観的
(4)区切り他人に関心がない × 客観的
それぞれに特性を考えて命名してみましょう。
(1)区切り他人に関心がある × 主観的
人のことが気になる、[比較クン]
→ひがみっぽくならないように要注意。
(2)区切り他人に関心がない × 主観的
わが王道をいく、[マイペースクン]
→電車の中の特異現象を起こすひとたちだな。
(3)区切り他人に関心がある × 客観的
観察が大切、[調査命クン]
→評論家にならないように要注意。
(4)区切り他人に関心がない × 客観的
生きている価値をふと考える、[哲人クン]
→厭世的になってしまう傾向あり。
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もちろん、人はいつもひとつのモードでいるわけではなく、さまざまなインプットから(1)~(4)を行ったり来たりしています。自分がどれ、人がどれと、簡単にレッテルを貼ることはできます。ただし、そういう傾向にあるのだということを理解しながら、例えばちょっと厭世的になっているときに、「お、哲人クンモードに入っているぞ」と、自分にちょっと警告を出すことができればいいです。それだけで、気持ちを小修正し、「立派な行動をする人」になることができます。
「せっかちおばさん」のおかげで考察が進みました。やはり人が何かと出会うときには必ず理由があるものですね。胸に毒素をためてもやもやするのが一番損!『無関心に弱いのに他人に関心を持たない現代人』という傾向を少しでも視野から減らしたいです。それにはまず、自分から。
★元来、ニッポン文化って、もっと誇らしい尊厳のあった人々のものだったのではないでしょうか。子供のころから海外で、日本文化に自分の誇りとアイデンティティを求めていた自分としては、物悲しい思いがするのです。